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不穏な本

アンナ・カヴァンの亡くなる前年の遺作 Ice(1967)『氷』。約四半世紀ぶり(2008)に復刊し単行本化され、“忘れられた作家”は不死鳥のごとく甦り、さらに、ちくま文庫より再復刊(2015)の機会を得て、今21世紀にこそ注目に価すると、まるで地球の終末を予見するかのようなビジョンに再発見・高評価の動きを見せているという。ようやく時代が追いついた感ひとしお、作家の最大最良の理解者である翻訳者・編集者・紹介者の喜びが大いに伝わって来る作品と言える。

まさに現代、目下いよいよ危ぶまれる気候変動、氷河期の到来、繰り返す人類の愚行、終わらぬ暴力や戦争を透徹するような視点に立つことになる。

私には読んだ感じはカフカというよりもサドの「悪徳の栄え」やナボコフの「ロリータ」寄りの嗜好がよぎったり、夜の闇に執り行われ、清らかな少女が生贄となる黒魔術の儀式めいた場面の活写や散りばめられたゴシック味・ホラー味が漂う身体の部分の微細な描写やその姿を瞬時に鋭く射抜くような視線などに強い印象を受けた。

幻想や不条理は好みでも、そちら系は趣味ではないので、ただ読むだけにしても、毛嫌いをして一線を越えないように用心している。もう、すっかり大人なので多少は嫌いなものも読むように、この数年は特にトライしているが、限られた狭い本屋の棚前ですら、果たしてこの世界に踏み入ってよいものか、ひとしきりは悩む。しばし躊躇していた私がなぜ購入に至ったかは、珍しく巻頭に収められていたSF作家クリストファー・プリーストの序文に依るところが大きい。

SFの一部、むしろフィクションのあらゆるジャンルを超えたところに“スリップストリーム”という分類枠があり、1980年代終わりにアメリカで提起されたアイデアだそうで、私には初耳で、当時のSF界にあふれ返っていた宇宙旅行や異星人の侵略やタイムトラベルなどのパルプ雑誌的枠組みの内におさまらない先鋭的なSF内外ジャンルの作品にこの考えを適用しようというものだったらしい。

当初、小説市場に新たなカテゴリーを創出しようとそれまで売りにくいとされたものにマーケットを見出す突破口になるかもと初期唱導者たちは立ち上がったようだが、事はそう簡単ではなく、その点ではたいした成果は見られなかったとのこと。これは日本の出版界においても80年代は同様な景色だったと思う。

そこに召集された作家の中にオースターやボルヘス、バロウズ、またガルシア=マルケスに代表されるマジックリアリズムも同類としてその名を列挙され、さらにこの“スリップストリーム”とは実質的には定義不能な概念であり、文学に限らず、音楽、映画、グラフィックノベル、インスタレーションなどにもその要素が見られるとあって、映画名としては「メメント」や「マルコヴィッチの穴」も挙げられていた。その序文をもう少し読み込みたくなり、この文庫を手に入れることにしたのだ。

フラッシュバックする夢や幻覚、妙に際立つエッジの鮮明さ具合、耳に聞こえる音の増幅加減の表現には、作者が抱える病の痛み止めとしてヘロインを常用していたことがどうしても脳裏をかすめた。とりわけ青白く月星のように輝くか細い少女の描写が美しい。紙面からキラキラと光がこぼれ出すような錯覚をおぼえる。風や雪や振り向きざまに揺れて煌めく銀髪の一本一本が目に見えるようで、詩的もしくは絵画的表現に溢れていて、常軌を逸した美しさや危うさ、恐ろしさとが隣り合わせで、やはりそれらに惹かれる感覚は病的で異常には違いないが、常人の瞳にもそれはこの上なく魅惑的に映る。

圧倒的な白の世界。迫り来る巨大な氷の壁に完全に無力な人間。敵わないとわかった時、人は事は起きてない起こらないと信じるか、現実を無視するか、無気力・無抵抗になるしかない。そんなに遠くない未来と思える私たちには背筋の凍る世界をただ眼前にする思いだった。

「私にとって、現実は常にその実体を測り知ることのできない存在だった。」

「外の世界の非現実性は、尋常ならざる形で私自身の乱された心の状態を延長したもののようにも思えてきた。」

「防御のすべを持たない地球は、ただ破壊されるのを待っているしかない。 なだれ落ちる氷によってであれ、果てしなく続く連鎖爆発によってであれ、最終的に地球は最小の構成物質にまで分解され、宇宙のちりに変容してしまうだろう。」

「彼は時空間の幻覚について語った。過去と未来が結びつくことで、どちらも現在になりうる、そして、あらゆる時代に行けるようになる、と。私が望むなら、自分の世界に連れていってあげようと言った。彼と、そして彼と同種の人たちはすでに、この惑星の終末と人類という種族の終焉を見ていた。人類は今、集合的な死への願望と自己破壊の衝動によって、この地上で死にかけている。ただ、生命そのものは終わらずにすむかもしれない。この地での生命は終わった。だが、別の地で生命は続き、大きく広がっている。その、より広範な生命に我々人類も加わることができる。我々がそれを選ぶならば。」

「夢、幻覚、その他何であるにせよ、覚醒したのちも、その強烈な影響はいっこうに消え去らなかった。私にはこの体験が忘れられなかった。夢の顔にたたえられた超越的な知性と完全性を忘れることができなかった。私は、大きな空白感、喪失感とともに取り残されていた。このうえなく貴重なものを手にしながら、みずからそれを投げ捨ててしまったような感覚だった。」

「氷は戦争にも何にも眼もくれず、その死の沈黙と荘厳な白い平穏の内にさらに多くの地を飲み込みながら、着実に近づいてきている。我々は戦争によって自分たちが生きているという事実を声高に主張し、ひそやかに地球を覆っていく氷のもたらす死に抵抗しているのだ。」 

「自然に、世界に、生命に対してなされた、恐ろしい犯罪。人間は生命を否定することによって太古からの秩序を破壊し、世界を破壊した。そして今、すべてが崩壊し、廃墟と化そうとしている。」


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