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感知する本

Jon Fosse(ヨン・フォッセ)と言って、どのくらい聞き馴染みがあるだろうか? 私はやはり、2023年ノーベル文学賞発表の際、ながらで聞いていたラジオから流れて来たニュースで聞きかじったのが最初だ。 

1959年9月29日、ノルウェー西部ハウゲスン生まれ。同国のベルゲン大で哲学と比較文学を学び、83年小説『赤、黒』で作家デビュー。詩や児童文学なども手掛け、90年代に本劇曲『だれか、 来る』を発表。世界的な劇作家としての地位を確立し、「欧州で最も多く上演された現代劇作家」とも称され、実に40篇以上の戯曲、22作超の小説が刊行済みという。戯曲は世界50カ国以上の言語に翻訳・上演され、これまで国内外で多数の文学賞を受賞とカバーにある。

しかも帯に“本書が初の邦訳書”という文字を見てしまっては、惹かれるタイトルといい、静謐なモノクロームの装丁といい、もう買わざるを得なかった。

そして、やはり

フォッセ戯曲デビュー作である、この『だれか、来る』は、ベケットの『ゴドーを待ちながら 』にヒントを得たそうだ。

ただ、「待つ」のではなく、「来る」。

他の彼の戯曲と比べれば、比較的リアリズム色の濃い作品であるという。多くの文学史に名を残す作家たちは、初作の中にこそ、その思想の核をなす多くの要素をすでに萌芽させているものだが、フォッセも例外ではない。後にミニマリストと呼ばれる由縁となる“削減”手法は、この戯曲にもう初めから宿っている。

そこでは、 言葉と言葉のあいだにある無言の「間」が重要なものとなってくる。フォッセは、この「間」も言葉と同価値を持つものであると言い、無言の「間」 は彼にとって最も重要な「言葉」だと述べるのは、彼と長年親しくもある本翻訳者 河合純枝氏。

「名前を切り捨て、特定化・限定化を除去する」と、フォッセは言う。個人の性格分析をするわけでもなく、特定のストーリーを語るわけでもない。特定化・限定化を剝ぎ取られた登場人物は、世界のだれでもが自分と重ね合わせられる自由を生み、普遍化する。

「名前が放出する特殊なアウラ、効力、影響力をなくすために、名前は使わないか、使ったとしても別の戯曲や小説で何度も繰り返し同名を使うことによって、名前の持つ限定された特殊性を取り除く」とフォッセは言う。

この『だれか、来る』のセリフの中で、「彼女」と「彼」が繰り返し発するセリフがある。このセリフは、この作品の核をなすものだろう。と解説する翻訳者。英語訳だとわかりやすいので、ここに記す。とあった。

Alone together
Alone with each other
Alone in each other

自然と音読したくなった。確かに、日本語よりわかりやすい。韻の響きが美しい。2人きり、なのか、1人ぼっちが2人、なのか、考えに考えた末、日本語選びにはかなり苦労されたことが伺えた。きっと、決めつけて訳し過ぎると限定され言葉の含みや広がりが無くなってしまい難しそうだ。2人きりで一緒、お互い1人ぼっち、2人で独り、一心同体という言葉も派生して、私には浮かんだ。

フォッセは、やはり「イプセンの再来」、「二十一世紀のベケット」と高い評価を受け、多くの巨匠たちの感化を受けていると言われるのだとか。

また彼の短い簡単な言葉、 例えば、「来る」「行く」「待つ」そして「何か」「yes と no」など、延々と執拗に繰り返される言葉が、私たちに改めてその意味を問い、否が応でも思考を促される。「言葉は、自分自身を聞いている」 と、フォッセは言う。詩人らしい言葉だ。

陳腐なミステリーやスリラーではない、安易に想像できる犯罪などは起きず、胡散臭い霊などの類も登場しない、お決まりの連続ドラマに期待するような大したことは何も起こらない。

フォッセの意図するところは、もっと複雑だと訳者は断言する。彼は、個々の人間の心理や劇のストーリーには、興味がない。

フォッセは、ある小文でこう言っているそうだ。

「僕が形作るのは、個々の性格ではなく、それよりも人間間の不思議な力学の場、そして状況、雰囲気によって、その場で何が起こるのかだ」と。


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