Naked Desire〜姫君たちの野望
第一章 心の壁−31
「クラウス──ッ、休憩だ。今から1時間。いってらっしゃい」
社員から休憩の指示が出た時、クラウスはちょうど、トースターのメンテナンスを終えたところだった。
会社は、店で働く店員全員に対し「クレンリネス」の徹底が求めている。店員はちょっとでも時間が空くと、ダスターで汚いところを清掃する。食中毒防止のためだ。
カフェ・ルーエ グラーツ総本店には、調理ラインが4本設置されている。平日昼間等のピーク時はフル回転する調理ラインも、その時間帯を過ぎると比較的暇になり、2本の調理ラインでも、注文に対応できる。
クラウスが、調理機材全般のメンテナンスをしている間にも、厨房内は注文を表示するモニター音、カウンターと調理担当者で交わされるやりとり、マネジャーの指示の声、包丁や食器洗浄機の音が、ひっきりなしに飛び交う。
休憩の指示を受けたクラウスが、やれやれという表情を浮かべながら、壁に掛かっているデジタル時計を見る。あと5分で14時になる。
「やっと休憩か……」彼はため息交じりに呟くと、トースターのメンテに使っていた布巾を、サニタリー溶液が入ったパンに入れた。それをシンクに持っていき溶液を流し、サニタリーパンを洗う。
流水でパンと布巾を丁寧にすすぎ終えたあと、手洗いスペースに移動する。掌から肘まで洗剤をつけて丁寧に洗い、ぬるま湯ですすぎながら、今日はなにを食べようかと思案する。
タオルペーパーで水滴を拭き取ったあと、小皿とコップ、ナプキンをのせたトレーを手に持った。
(よし、今日はこれにしようか)
専用トングで、商品棚からローストビーフと野菜サラダをたっぷり取り出し、それを皿に盛り付けると
「この野郎、またそんな高い商品を選びやがって」背後から、野太い声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには仏頂面のラッシャー総店長がいた。
「俺がなにをどれだけ食べようと、俺の勝手でしょう?」
「お前、俺に逆らう気か、この穀潰しが!」
「俺は穀潰しじゃありません。労働に対する正当な対価をいただいているだけです」
「なにが『労働に対する正当な対価をいただいている』だ! そんな減らず口たたくと、ずっとフライヤーのフィリタリング作業をさせるぞ」
「減らず口たたかなくても、いつも俺にやらせているじゃありませんか」
「喧しいわ! さっさと休憩に行け!」
(ああ、面倒くせぇオッサンだ)とクラウスは毒づきながら、料理皿がのっかったトレーを持って、事務所に向かう。
事務所のドアに付帯するシステムのキーボードでパスワードを入力すると、ピッという音と共にドアがすっと開いた。さっと中に入るとドアを閉め、パスワードを入力してロックをかける。
事務所の奥から、話し声が聞こえる。耳を澄ませると、女性店員が数人、着替え用のスペースにたむろしているようだ。だがクラウスには、彼女達の話題には興味を示さず、そのまま休憩スペースの椅子にどっかりと座り、トレーをテーブルの上に置いた。
ここに置かれている従業員用のテーブルと椅子は、客室用のそれとは比べものにならないくらい安っぽい。椅子は折りたたみパイプ椅子だが、その部分はサビが目立っている。よくみればテーブルも、あちこち傷んでいる。備品を粗末に扱う従業員がいるから、壊れたままのものもある。従業員たちは「新品がほしい」と、再三に社員に要望を出していが、その都度ラッシャーが
「そんな金のかかる要望なんか聞けるか! 欲しけりゃ自分たちで買えばいいだろう!」
と言い張るので、店員達は社員のいないところで
「店長は、アルバイトに対する福利厚生の話をすると、露骨に嫌な顔をする。アイツのせいで、この店は急速にブラック企業化が進んでいる」
と、愚痴をこぼしている。
今クラウスが座ってる椅子も、動くたびにギシギシと音が鳴る。何かの拍子に、椅子が壊れて頭を打ちつけ、それが原因で怪我をしたり死者が出たら、店はどうするつもりなのか。
実際数日前、店員の座っていた椅子の腰掛け部分が、突然外れるという事件が発生した。店員にケガがなかったのが不幸中の幸いだが、その椅子は今も処分されず、休憩室の片隅に置かれたままだ。さすがに「使用禁止」と書かれた紙を貼られているが。
「汚ぇなぁ」
椅子に座るなり、クラウスは不満げに独りごちた。テーブルの上には食べかすが散らばり、ところどころに液体が付着していた。来店客をこんな客室に案内したら、即クレーム案件だ。
「なんだぁ、俺たちはブタ小屋で食事しろってか?」
ダスターを求めて視線を動かす。確かに、お目当てのものはあった。だがそれはだらしなく丸められ、テーブルの隅に放っておかれていた。ほぼ乾いた状態で、汚れのシミもついたままだ。
「俺の休憩時間がなくなるだろうが!」彼は腹立ちまみれに、机をドン! と叩いた。
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