ベイビーからアダルトにステップアップしました

#1 鷹崎奈津との再会

「じゃあ来年の夏、アトランタで会いたいな……」
なっちゃんがアトランタに行くとき、僕にそう話してくれた。
あれから1年が経った。
下部大会で着実にポイントをゲットし、世界ランキングで300位を切ったことで、ATP250への参加資格を得た。
本当は本戦から出たかっ たけど、世界は甘くない。なっちゃんも、こんな環境で世界を目指しているんだろうか。
さすがはATP250だ。これまでとは何もかも違う。
下位ツアーはホテルの手配から交通機関の確保まで、何から何まで自分だけでやらなければならなかった。
だがATPの参加資格を得れば、そんな生活ともおさらばできる。
ホテルは主催者が用意してくれるし、空港からホテルまで来るまで送迎してくれる。選手にとって、雑務から解放されるメリットは計り知れない。
それにしても、なんと立派なホテルなんだろう!
部屋も広いし、キッチンつきのコンドミニアム(分譲マンション形式)の部屋。これだったら、長期滞在も快適そのものだ。
ほっとしたら、一気に睡魔が襲ってきた。飛行機の中では、緊張で十分に眠れなかったからな。時計の針は午後4時をさしている。
試合は3日後だ。勝つためには、時差ボケ対策も重要になってくる。
いま寝ちゃダメだ!と必死になって首を振り、眠気を振り払っていたら、電話が鳴った。ひょっとしたら、なっちゃんからかも知れない。

「もしもし、なっちゃん!?」
「エーちゃん、着いた?」
「うん、着いたよ。今、どこにいるの?」
「家だよ。でもまだ、準備しているから、7時頃ウチに来れる?住所で家はわかるよね?」
「うん、大丈夫だと思う…………。じゅんび?」
「じゃあ後でね」
「うん後で」

準備?
なっちゃんは、何の準備をしてくれているのかな?
ホームステイ先の家族に、僕を紹介してくれるのかな?
ひょっとして、家族と一緒にホームパーティーをすることになり、その準備をしてくれているのかな。
約束の時間まではまだ余裕がある。それまではコートで汗を流そう。
予選会場は、立体駐車場の下にあるテニスコートだ。3日後はここで試合なのか。その前になっちゃんに会うのか。
これから起こるであろう事を考えているからか、ボールコントロールが定まらない。集中できていないんだな。こんなときに無理してもダメだ。一汗かけたことだし、今日はこのくらいで切り上げよう。
それから数時間後。
僕は、なっちゃんがホームステイしている家の前に来た。
地図を片手に探し回っていたけど、無事に約束の時間に着くことができてよかった。
彼女の顔を見るのは、1年ぶりだ。
やっと彼女に会える。その喜びをかみしめながら、彼女の家のドアをノックする。
玄関のドアが開くと、喜色満面の表情でなっちゃんが立っていた。
「なっちゃん久しぶり! 会いたかったよ」
「うん。私もだよ」
彼女はそういうなり、僕を力一杯抱きしめてきた。僕も負けじと、なっちゃんを力一杯抱きしめる。
「あははははー 本物だー!」
「うんうん なんか感動…………」
こちらとしては、もうちょっと感動に浸っていたかったのだが、彼女はかまわず
「ねぇ早く入って ご飯作っておいたから!」
といいながら、左手を僕の右肩にかけ、家の中に引っ張り込もうとする。外国で、なっちゃんの手料理が食べられる! 僕はそのことだけで胸が一杯になった。
「え! わざわざ作ってくれたの? ありがとう!」
玄関のドアを閉めながら
「うわぁ……うれしいな! 準備しているってそういうことだったのかー」
というと、彼女は顔を赤らめながら
「あとは心の準備とかね」
と、ぼそりとつぶやいた。僕はびっくりして、思わず
「えっ!!」
と大声を出してしまった。
しまった! 今の声、ホームステイ先の家族の人にきかれたら、ちょっと恥ずかしいなと思いながら、僕は玄関のドアを閉めた。
さすがはアメリカだな、となっちゃんが住んでいる家を見て思った。一つ一つの部屋が、日本のそれとは比べものにならないくらい広い。ホームステイ先の家族に挨拶したいというと、彼女は
「今、外出しているんだよ。エーちゃんが来るといったら、ご主人が『じゃあ彼が滞在中は、ボクたちは外に出ているよ。二人きりの素敵な時間を過ごしなさい』っていってくれたの」
というなっちゃんの顔が、赤いままに思えるのは気のせいか?
二人っきりの素敵な時間、かあ…………。これから、どんなことが起こるんだろうか。

なっちゃんの案内でリビングに入ると、広いテーブルには料理が沢山並んでいた。
カレー、ピザ、サラダ、そしてお米に味噌汁。海外でお米と味噌汁が食べられることほど、嬉しいことはない。
飲み物として緑茶、デザートとしてブルーベリーパイとコーヒーセットが用意されている。「こんなに沢山のご馳走、なっちゃんが作ってくれたの?ありがとう!」
「私はご飯を炊いて、味噌汁を作ってサラダにドレッシングをかけただけで、他の料理はホームステイしている家族が作ってくれたんだ。カレーに入っている野菜の一部は私が切ったんだけど、普段包丁なんかほどんど使わないから、なかなかうまくいかなくて」
皿に盛られたカレーの野菜は、しかし食べやすく切られている。普段から自分のことを「超感覚派」と呼ぶ、彼女のイメージとは正反対だ。本気で料理の基本技術を学んだら、いい奥さんになるに違いない。
「でもまあ、話したいことは沢山あるから、さっさと食べようよ」
「そうだね。料理があっつあつのうちに食べるね」
キンキンに冷やされたグラスにペットボトルの緑茶を注ぎ
「じゃあ、2人の再会を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
2人ともグラスの緑茶を一気に飲み干した。きっとそれだけ喉が渇いていたのだろう。
普通だったら緑茶の代わりにビールなのだろうが、僕たちは年齢制限のためにアルコールは飲めない。
現地で「緑茶」はほとんど砂糖入りなのだが、食卓にあった緑茶は砂糖なしの商品。家族の心遣いが嬉しかった。
食事をしながら、ボクたちはこれまでのことを語りあった。
運動不足解消のためにテニスを始めたこと。
その後の急速なランク上昇に、自分でもびっくりしたこと。
プロに転向することなんか、最初は思ってもいなかったこと。
ジュニア時代のこと。
ライバルとの対戦の思い出。
テニスの道具、戦術、その他諸々。
高校時代のたわいのない話の数々。
話に夢中になって、ふと壁に掛かっている時計を見ると、針は10時15分前を指していた。
「準備はなっちゃんがしたから、後片付けは僕がやるね」
僕はテーブルの食器をキッチンのシンクに入れ、軽く洗剤で汚れを落としてから、すぐそばにある食器洗浄機に食器をセットする。
しかし残念ながら、僕は洗浄機の使い方を知らない。なっちゃんに教えてもらおうと視線を横に向けたが、傍らにいるはずのなっちゃんがいない。
あれっと思って後ろを振り返ると、何やら思い詰めていた表情をしていた。思わず顔を正面に向けると、彼女は静かに自分の身体を、僕の背中に押しつけた。

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