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大人はなぜいちいち出さなくても良い時に声を出すのか、子供の頃からずっと不思議だった。

一息つくときの「ふぅ〜」
お風呂にはいれば「あ〜〜〜」
ビールを飲めば「ぷは〜」

色んな場面で大人は周りを気にせず、自分の世界から思い思いの音を出している。それも大人になればなるほどその音は大きい。
が、最近やっと気が付いた。
あれはきっと降伏に近い。

流れに身を任せている魚。
追い風に乗ったボール。
向かい風を全身で受け止めるムササビ。
歩く歩道。のような。
乗れるものは乗っておいた方がスムーズに事が運ぶし、幸せな気持ちを多少増幅させてくれるブースターにもなったり、時に辛い気分をうやむやにもしてくれる。
反抗する鬱々とした気持ちや抵抗するつまらない理論武装を捨てて、自分の感情に白旗をあげているのだ。多分。
(でも「長いものに巻かれる」のとは違う)

特に思春期の頃は何故だか、そういうどうでもいい部分にもいちいち自分のものにしようというささやかな抵抗を持っていた気がする。今はそんな抵抗をするほどありあまるエネルギーもないし、そもそも思春期の抵抗に意味などない。

鮭は感情に降伏せず、卵を産むという一世一代の使命のために故郷の川を遡上する。命を繋いだ後はそのまま力尽きてしまうらしい。
流れに逆らうというのはおそらく想像以上にタフなことで、パンクなマインドで武装しなければやっていけないだろうと勝手に想像する。
遡上を始める前夜はきっと眠れない事だろう。マラソン大会の前のような気持ちかもしれないし、遡上前あるあるのようなものが鮭界にはあるのかもしれない。
遡上するように人間も社会の荒波に抵抗を続ける事ができたら、最終的に鮭になって果ててしまうのだろうか。


幸か不幸か、そんな生命の大義名分がない私は大人になってようやく降伏することを覚えた。
思わず銭湯で声が漏れた瞬間、どこかの故郷の川で遡上を始めているパンクな鮭を思った。
降伏することを覚えてしまった私はもう鮭にはなれなかった。
そんな夏。少しだけ秋の背中が見える。

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