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短編小説:「鯖を弔う。」


水平線が複雑な色合いに染まりながら、夜が終わってゆくのを眺めていた。
紺色とオレンジのドレープを引いたような空の裾が、時空の境目で凪いだ海と混じり合うその様を、眺めていた。
海岸通りを走るタクシーのエンジン音だけが規則的に鼓膜を揺らす、午前5時半。
暖かい車内で、この時間がずっと続けばいいと私は思っている。
2時間後の私が、何をどう受け止め、どこにいて、何をしているのかは、今は考えたくなかった。


海岸通りを抜けると、車は片側二車線の県道に出た。対向車は少ない。大型の長距離トラックが何台か、生き急ぐようにタクシーを追い越していった。テイルランプが警告灯のように見えて、そのたびに心がざわついた。

ガソリンスタンドのある交差点に差し掛かると、大破したトラックと、同じくらい原型をとどめない赤い乗用車が片側の道を塞いでいた。それから、パトカーとレッカー車。
誘導灯がまたたくたび、発煙筒の煙が浮かび上がる。
地面には、黒々とした染みが広がっていて、飛び散ったガラス片が、夜の底のわずかな光を受けてちらちらと光っている。

「あーあ、大変な事故ですね」
運転手が言った。
「そうみたいですね」
静かに私は答える。
事故の甚大さを確認するように速度を落としたタクシーが現場を通りすぎるとき、
「あっ」
と、運転手が声をあげた。
つられて私も、意識を集中させる。
「魚、ですか?」
運転手の指差す方に視線を向けると、そこには魚の頭部が落ちていた。
しかも、一匹や二匹ではない。ぶちまけられたと表現するにふさわしい量の魚の頭部が、路上に散乱しているのだった。
「魚ですね」
私は言って、目を閉じた。

「お父さんが事故起こしたから、早く出てきて」
動転した母からの電話で起こされた時、私はもちろん暖かいベッドの中にいた。
父は町外れにある市場の一角で水産加工業を営んでいる。
深夜の1時に起きて市場へ出勤するのだが、先ほど交差点を赤信号で止まっている時、信号無視をした乗用車に横から追突されたらしい。
乗用車はほとんどブレーキをかけていなかったようで、乗用車も、父の乗っていたトラックも、無残に大破した。乗用車の運転手と父は病院へ運ばれ、手当てを受けている。
母から聞かされたが概要はこうだった。
だから、道に散乱した魚(正確には、ノルウェイ産の鯖である)の頭部を見たとき、なぜ魚? とは思わなかった。その代わり、道に大きく広がった不気味な染みが、胸に冷たい刃をあてるように、私の不安を煽った。

運転手に料金を支払ってタクシーを降りると、なまものの匂いがした。
肉、野菜、魚、果物、花。それらに木屑や紙くずや生ゴミが混じり合って、市場特有の匂いを放っている。死にたての有機物の匂い。
その淀んだ空気を拡散させるように、ターレットトラックが行き交う。男たちが怒鳴りあう。カラスの鳴き声と場内放送。どこかの店の女主人が、大声で話している。
角の花屋の店先には大量の仏花がバケツに活けられていて、そこだけお葬式みたいだといつも思っていた。
毎日これだけの花が売られてゆくということは、少なくとも毎日これだけの仏事が行われているということなのだ。人々は、死を、この世でもっとも忌むべきできごとのように扱うけれど、すべての人間があたりまえに死ぬことも、同時に受け入れている。
水色のバケツいっぱいに咲き誇った菊の花は、生き生きと黄色の花を咲かせている。

「あやこちゃん!」
後ろから声をかけられて立ち止まる。振り返ると、青果店のフルイチさんだった。
「あやこちゃん!お父さん大変だったな!みんなが心配しとるが」
「ええ、いま様子を見に出てきまして」
「たいした怪我じゃなくて、よかったわ。わしもトラックみたけどな。えらいことになっとるが。あれで骨も折っとらんのは、奇跡だわ」
父が骨折すらしていないということを、私はこの時に知った。ほっとして、力が抜けた。
そして、身内である母よりも早い市場の情報網に驚くと共に、いろいろな人が父を心配してくれているということに、改めて父の人望の厚さを知る。

「勝田商店」
と書かれたシャッターは半分降ろされていた。
大八車がのぞく軒下をくぐると、母がいた。
「あんた、あれ見た?」
母が私の顔を見るなり言う。
「見たよ」
先ほどの物々しい事故現場のことを思い出す。
私が答えるなり、母は俯き、肩を震わせ始めた。よほどショックだったのだろう。母の不安と安堵が痛いほどに伝わり、かける言葉がない。

と、思った数秒は一体なんだったのか。よく見ると、母はくつくつと笑っているのだった。
「お母さん、現場に急行したとき、道に散らばった鯖を、これがなんぼの損害になるかと思って、咄嗟に拾い集めたんよ」
「ハラワタも。あんなもん道に出しとくのは恥ずかしいけ。もちろん素手だで。まだ腐ってないのが救いだった。あんた、これ、夏じゃなくてよかったわ」
おかしくて仕方がないというふうに背徳的な笑いを必死で押し殺す母を見ながら、私は母が路上で鯖のハラワタをかき集める様を想像した。

母は、美しい人だった。
それはもう、とても。
だから、会社の同僚も上司も学校の先生も友達の恋人でさえも、それこそかきわけるのに苦労するほどの男たちが、若い母に群がった。その中には御曹司や、会社の経営者もいたと聞く。
それなのに母は、周囲の大反対を押し切って貧乏な魚屋の息子と駆け落ち同然に結婚した。

「お父さん、たいした怪我じゃないみたいね。さっき、フルイチさんに聞いた」
私がそう言うと、母は、はたと驚いたような表情を浮かべ、
「あれ、お母さん言ってなかったか」
「トラックはぐちゃぐちゃになったのに、全然怪我せんかったの。足首がちょっと痛いって言って、一応救急車で病院に運んでもらったけど」
そういう大事なことは、先に言ってくれよ。私は心で、母のそそっかしさを責めた。
どうやら、私を叩き起こして「出てきて」と言ったのは、父の容体ではなく、今日の商売を心配してのことだったらしい。
「相手の人はどうなったん?」
「肋骨骨折だって」
手元の伝票を弄りながら、母はさばさばと答える。
「どっちも死なんでよかったな」
「そうね。死んだかと思ったけど。商売人はしぶといけ。お父さんもうすぐ戻ってくると思う」
そう言って、母はちらりと店の入り口を見る。
とは言え、事故現場から運び込んだと思われる木箱が乱雑に積まれた店内が、今朝の騒動の大きさを物語っている。
「今日は臨時休業にするん?」
一応聞いたが、聞くまでもないこともわかっていた。
「まさか。配達に行くで。手押し車は無事だけな」
「けどこれ……」
私は木箱に目をやる。
先ほどから気になっていたのだが、乱雑に積まれた木箱の中には、細かなゴミが付着した大量の鯖が、これまた無造作に放り込まれている。「なんぼの損害になるかと思って咄嗟に拾い集めた」鯖だということは、ひとめでわかった。

勝田商店は、鯖を専門に加工する業者だ。食べやすいように頭部を切り落としたものと、1匹丸ごと販売しているものとがある。魚は自宅で調理する風習の根強い田舎では、有頭の鯖が主たる商材だった。その本日の販売分である。
「売れんだろ、さすがにこれは」
1箱のなかに20匹前後の鯖が詰め込まれている。ざっと数えて、それが12箱あった。その中の1匹を手に取り、埃を払ってみた。魚のゾンビみたいだな、と、私は思う。今しがた死んだばかりの、魚のゾンビ。宿命的に死んで宿命的に道路にばらまかれ、そして宿命的にここにいるかのような、その意思のない目。
おそらく母がこれを売ることはないだろうと、私は思う。
母はいつも、現実的な利益とともに、自分の売ったものが人々の食卓に上り、そして誰かの骨肉になることまでを想像して、商売をする人だったから。

「はーーーーっ」
母が、この世の果てのような長い溜息をついた。
つかつかと木箱に近寄る。腕を組んで、そしてまた溜息。天を仰ぐ。猫の顔に見える、天井の染みを見ている。しばらくの間。

そして、言った。
「これは捨てます」
「捨てますか」
私は応じた。
「捨てます。お父さんが戻ってくるまでに、全部」

重いものなんて、男の人に持ってもらいなさいよ。
母がいつか言った言葉を、私は思い出す。
実際にそうやってしなしなと生きてきた母は、理想の人生を捨てて魚屋の嫁になり、昼夜を問わず肉体労働に励み、ある早朝に県道にばら撒かれた魚を拾い集めて一人で持ち帰り、そしてこれをまた誰の手も借りずに処分しようとしている。その雄姿に、突き抜けた明るさがあることがふいに私の胸を打った。

経費削減のため、勝田商店ではゴミを自分たちで処分していた。ちいさな個人商店なので、公共市場のゴミ収集場を利用せずに、家庭ゴミとして自治体の回収日に出していたのだ。
「ちょっと行ってくるわ」
そう行って出て行った母は、今日だけ特別に市場の収集場を使わせてもらう権利を得て帰ってきた。どういう話をつけたのかは、私にもわからない。

それから私たちは、店とゴミ置場を手押し車で3往復して、木箱いっぱいの鯖を運んだ。

収集場は、ものすごい低温になるように空調が管理されていて、冷蔵庫の中のように寒かった。
最後の1回を巨大なポリ容器に移した時、花屋のササキさんがやってきた。
「勝田さん、大変だったな。びっくりしたわ。無事でよかったが」
ササキさんは、段ボールいっぱいに黄色い菊の花を持っている。
それをバサバサと、ポリ容器に放り込む。
ぐったりと打ち捨てられた鯖を、みるみる黄色の仏花が埋めてゆく。
鯖の葬式だなと、私は思う。


それから外に出て、冷えた手に息を吹きかけた。


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