見出し画像

学びっていうのは もしかしたら とても地味なものかもしれない

教育が変わり続けていると、感じる。

教育っていうのは、幼児教育も、義務教育も、高等教育も、それから、社会人教育も、全部。人に学びを施そうとする営みの全て。(余談ながら、〈学び〉という言葉は印が自分に向いていて、〈教育〉という言葉は学ぼうとする人に対して外から矢印がやってくると理解している。)それら全ての学びの場が、目に見えるスピードで変わっていると感じる。

きっと、それだけのスピードで社会が変わっているからだろう。「社会」って何か、あまりに意味が広くて漠然としているけれど。たぶん、人と人とが足りない部分を補いあう仕組み(=仕事ってそういうことだと思っている)や、そのための時間の使い方や、人と人との関わり方が変わっている。そして、そういう仕組みがどんどん変わっている結果、私たちが、生きる上で何を大切にするのか、という価値観が変わっている。

そこまで変わっているのだから、社会に出るまでに経験しておいたほうがいいことや、身に付けておきたいことや、知っておきたいことが変わって当然のこと。

そんな訳で、教育というものが、目に見えるスピードで変化している。

教育に対して、批判がたくさんあることも知っているけれど、それでも、現場にいる多くの先生たちは、子どもたちが、社会に出る前に、どんなことを経験して卒業したら良いだろうかと考え、真摯に向き合っていることが伝わってくる。

「新しい学びの形」が魅力的であることを伝えるべく、様々に「学びの成果」を目にすることが増えた。ダイナミックな創作物とか、調べたことを発表するプレゼンテーションとか、子どもたちが企画運営をする行事とか。

そういう華々しい成果はどれも素晴らしい。子どもたちの頑張りも伝わってくる。でも、学びの目的、って、そういう分かりやすく目に見える成果を形にすることだったっけ、と、だんだん疑問を感じるようになってきた。

立ち上げに関わった保育園では、初年度に0歳だった子どもたちが今年の3月に卒園した。1人の男の子の卒園制作を見ながら、1歳の頃、お庭で、つつじの花をずーーーーっと観ていた姿を思い出した。それから5年間。彼は気になるものをじっくり観察するうちに、観るだけではなく、自分の好きなことに対して、自分から取り組むようになっていた。
卒業制作は、彼の好きなものを一杯散りばめた、素晴らしい作品だった。でも、この目に見える素晴らしさだけが彼の全てではないよね、とも思うのだ。彼が、この保育園で、自分の好きなことにずっと向き合い続けた時間は、どんな作品でも表現できない。そして、表現できなくてもいいのかもしれない。確かに彼の中に蓄積されているから。

別の園でのお話。ある年、年中クラスの担任の先生は、ものすごく熱心で、毎週のように新しい「子どもたちが興味を持つようなネタ」を持ってきていた。絵を描くときには目新しい道具や描き方を用意していたし、石鹸を作るとか、生け花をする、とか、子どもたちだけでは思いつかない珍しい体験も沢山あった。
先生は子どもたちの進級に合わせて持ち上がり、2年連続の担任となった。学年も1つあがり、先生も2年目。先生は、子どもたちから提案する遊びを大切にしようと、毎週のようにあれこれ工夫していた仕込みを、一度やめてみた。
大人の目からは、子どもたちのアウトプットは、レベルが下がったように見えたかもしれない。年中のハロウィンの時に、小さいクラスの子どもたちのために全員分作ったビーズのブレスレットは、細かいビーズをきっちり順番通りにテグスに通して、素晴らしくクオリティの高いものだった。年長の時には、子どもたちの提案で、折り紙の手裏剣と、飾り付きのゴム(ヘアゴム)を作った。見た目の完成度は随分下がったかもしれない。でも、自分たちで何を作るか考えて、材料も先生に頼んで準備して、相談しながら作ったプレゼントは、ずっとずっと学びに満ちたものだった。

私たち大人は、「学び」を目に見える成果で確認したい気持ちになる。新しい教育や、新しいチャレンジが多い昨今は、特に、「新しいコレ、こんなところがいいんだね」と思ってもらいたいから、ちょっと気合がはいる。時には入り過ぎちゃって、見た目が良くなるように、大人が整えすぎてしまうこともあるかもしれない。

でも、「学び」って、本来は、そんなにはっきり成果が見えるわけじゃない。特に「学び」の渦中は、人にお見せできるような状態じゃなくなる。学びそのものは、華々しいプロジェクトの成果とは無縁の、地味な蓄積なんだろうという気がする。

新しい教育の在り方を作っている人たちは、前例のないところから、あれこれと本当に尽力していることは、分かる。だから、その魅力をどうやったら伝えられるだろうかと、色々工夫していることを否定しようとは思わない。でも、それと同時に「映える」ような分かりやすい成果はなかったとしても、子どもひとりひとりの中で、静かに蓄積されている「学び」があるってことも、大切にしていきたいと思う。

学びって、とても地味で、だからこそ、着実で、堅実で、信頼できるんじゃないのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?