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落ちこぼれテニス部だった

小学校の時、あまりに運動ができない私を見て、母は、せめて何か身体を動かした方がいいんじゃないか、と思ったらしい。
運動らしい運動は、一通りできなかった。逆上がりも、のぼりぼうも、うんていも。縄跳びは、縄を1回まわす間に「トーントン」って2回足をつく跳び方じゃなくちゃ長く跳べなかった。泳げなかった。
きっと、傍から見て明らかに「運動ができない人の身のこなし」だったんだろう、と思う。
ただ、本人は「私は運動ができない」とはっきり理解できていなかった。「鉄棒ができない」「縄跳びができない」という個々の事実が、「私は運動ができない」という大きな事実と結びついていなかった。そのへんが、ぼんやりしているんだよね。

3年生の頃だったと思う。「テニスやってみる?」と母に聞かれた。テニス、って、マンガとかアニメで登場すると、いつもおしゃれなイメージ。
「やりたーい」と即答したと思う。「私は運動ができないから、テニスもうまくいかないかもしれない」とは、微塵も思わなかった。全くもって、自己認識が甘い。

習い始めの頃は、ラケットを持つ時間はあまりなくて、ボールを使ったレクリエーションゲームみたいなことばかりやっていた。コートの真ん中にあるボールをサイドステップでラインまで持っていき、またコートの真ん中に戻ってくる、とか。ボールに慣れることや、足をしっかり使うことが目的だったんだと思う。
多少はボールを打つ時間もあったのだと思うが、母いわく、ボールが通り過ぎてからラケットを振るくらい、まぁ、センスがなかったらしい。

学年があがって、詳しい状況は覚えていないけれど、1レッスンの生徒の数が一気に少なくなった。少人数のレッスンは、一般のテニスボールではなく、ふわふわのスポンジの玉を使って、丁寧にフォームを作っていくような内容になった。柔らかくて軽いボールを使って、ラケットをどんな風に動かしてボールに当てるのか、1球ずつ確かめながら打っていく、スポンジの玉→練習用の柔らかい硬球→普通の硬球と、段階を追ってボールが固くなるうちに、ボールが思った方向に跳んでいくようになっていた。

小6-中3まで海外の日本人学校に通った時も、家の近くのテニススクールに通っていた。コーチは、ちょっと日本語ができる現地のコーチ。日本人学校の同級生も何人か同じレッスンに通っていた。中学生の時には、友達とダブルスを組んで、日本人会主催の大人たちのテニス大会にも参加した。1回戦敗退なのに「中学生なのに上手だね」って言われて、ちやほやされていたと思う。

高校に入ったらテニス部に入る、と決めていた。他の部活と比較するまでもなく、テニス部に入った。そして、同級生のレベルの高さに驚いた。
この時には、「自分は運動ができない」ところからスタートしたことを、すっかり忘れていたと思う。
入部してから、県下でも有数の強豪校だったことを知る。そんなん、知らんかったし。

コーチがいるレッスンと違い、部活のテニスは、下手っぴな人が1人いれば、みんなに迷惑をかける。ラリーを打つときは、相手が同級生でも、後輩でも、いつも緊張していた。私の相手になったばっかりに、練習にならない、ってことになったら、申し訳ない、と思って。

公式戦は、自分は一回戦で敗退した後、同じ学校の子が勝ち抜くのをずっと見ていた。高2の途中くらいまでは、同じく高校から入部した人とペアを組んで、ダブルスにも出たけれど、彼女が部活を辞めてからは、無理やりペアを探すこともせず、シングルスだけ出場できればいいや、と思っていた。

それでも、高3の引退まで、続けた。だから何、って訳でもない。続けただけのこと。

でもまぁ、運動のできない私が、運動部で3年間、自分なりにがんばれたことはエラかったな、と思う。誰かと比べても仕方ないくらいに落ちこぼれていた私は、逆に、誰かを比較対象として気にすることなく、過ごせたのかもしれない、それは良かった。

あの頃の落ちこぼれテニス部が、何の役に立っているのかなんて、分からない。何の役にも立っていないかもしれない。
まぁ、でも、別にいいんだ。何かの役に立つ必要もない。
私は落ちこぼれテニス部だった。それでいい。

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