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ラムネ氏のはなし

『ラムネ氏のこと』というエッセイを国語の授業で読んだのは、高校生の時だった。どこかの出版社の教科書らしいページをコピーしたものが配られた。コピーにしても4-5枚の、短いエッセイ。作者は坂口安吾。

「言葉は人生を切り拓く武器」が口癖だったおばあちゃん先生が、突然配り始めたプリント。この文章の解釈の話は聴いたけれど、定期テストの範囲ではなかったと記憶している。成績のためではなく、おそらく、人生のメッセージとして、先生が私たちに届けてくれた想いなんだと思う。

今日、ふと「坂口安吾」さんの名前を目にして、条件反射のように「ラムネ氏」のことを思い出した。先生が届けたかった思いの幾ばくかは、私も受け取れているんじゃないかな。

もう30年くらいも前、この文章を読んだ時に、「あぁ、すごいものに出合った」と強烈に思ったことを、確かに覚えている。

「ラムネ氏」は、命をかけて物事を変革する人たちの話だ。「変革」と言っても、それは、ラムネの玉だったり、フグだったり、キノコだったりと、生活が著しく変わる程の変革というよりは、「ちょっとうれしい」「ちょっと豊か」というくらいのことなんだけれど。

でも、そんなちょっとしたことに対しても、命をかけて変革した人がいる。それも1人ではない。変革した人たちが、数珠つなぎに繋がって、少しずつ物事が動いてきた。その数珠つなぎの先端に、今がある。
そこには、どんな小さな変革であっても、命を懸けて向き合い、少しずつでも何かを為している姿を肯定しようというメッセージがあった。

そのメッセージは、社会に対して変革を起こそうとする坂口安吾自身への自己肯定の想いだという話を授業で聞いた気がする。そう言われれば、そこで語られる言葉は、常に変革者に寄り添っている。「少しでもいい」「実現できずに次の人にバトンタッチするのでもいい」「これ、と決めたことをやり続けるって、立派なことである」・・・そう、言っている。

名前の伝わっていない何十人、何百人もの営みの先に、今がある。1人1人の為したことは小さいかもしれないけれど、諦めることなく、1歩1歩変革してきた人がいるから、今がある。そのメッセージは、たとえ「何者か」にはなれなかったとしても、意思を持ち行動すれば、きっと社会を動かすことができるという希望に満ちていた。何者かになり、何かを為さなくてはいけないような気がしていた高校生の私にとって、思い及ばなかった新しい視点だったのだろう。

変革者は、誰でも、物事を変えようとする挑戦者チームの一員だ。
たとえ、自分の代で変革を成し遂げなかったとしても、何かがほんの僅かでも前に進んだとしたら、それは意味のあることに違いない。

30年前の記憶をたどりながら、ラムネ氏のことを思う。きっと、今、改めて読んでみたら、きっと全然違うメッセージを受け取るのだろうなぁ。それも楽しそうだ。私は、この30年間変革者であり続けることができただろうか。きっと、30年の振る舞いによって、文章から受け取る想いは全然違うものになるはずだ。
近いうちに読んでみよう。

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