見出し画像

「子どもの自由なアイディアを生かす」って なんか違うと思ってる

地域活性とか、ビジネスアイディアとかの場面で、〈子どもたちの自由な/画期的な/常識にとらわれない/夢のある〉アイディアを生かそう、と言う人は、あまり子どもと関わる機会のない人かな、と思う。

あるいは、ビジネスの場面で、自分でアイディアを出して、企画を生み出した経験のない人。

確かに子どもたちは、時に、大人が想像もしないようなことを思いつくこともある。大人にとっての「当たり前」の概念がないからこそ、生まれるアイディアもあるかもしれない。

毎月、保育園の子どもたちとアート活動をしているけれど、子どもたちは、私が想定していなかったような表現をいくつもいくつも見せてくれる。

絵の具を入れるために用意した紙コップを、筆のように使って絵を描いたり。紙コップに色を塗り、画用紙に貼り付けて立体的な作品にしたり。筆の代わりに用意した綿棒の綿の部分を集めて、わたあめ屋さんを始めたり。

ただ、そういう時の子どもの発想が面白いのは、彼ら自身が手を動かしている最中に思い付いて、そのまま自分で実現できるからじゃないかな。

大人が主導権を持った文脈の中で、実現することを想定したアイディアを出そうとすると、同じ子どもたちが、急に当たり前のことしか思いつかなくなる。「今度の遠足で、どこに遊びに行きたい?」と聞けば、今までに自分が行ったことのある場所しか出てこない。近くの公園。電車に乗りたい。動物園。テーマパーク。とかね。ここで、「竜宮城」とか「おつきさま」とか言ってくれる子はなかなかいない。

アイディアと言うのは、基本的には、自分のアタマの中の引き出しからしか生まれないと思う。自分が経験したこと。調べたこと。誰かの話を聞いたこと。

もちろん、自分は経験したことがないのに、何の脈絡もなく、突然、面白いアイディアが思い浮かぶ人もいるかもしれない。私はそういう人を、1万人に1人の天才だと思っている。それ以外の凡人は、自分の引き出しの中から、状況に見合ったネタを探し出しているんだと思う。
(そんな訳で、凡人の1人である私は、自分のことを「ひらめかない企画者」と呼んでいるのだけれど。)

子どもたちの「一見突飛なアイディア」も、多くはその枠を出ないと思う。紙コップを使って筆のように書くのも、筆を使って描いた経験や、スタンプ遊びをした経験があるから。「筆と紙コップはちがう」という概念がないから、その垣根を飛び越えるだけで、自分の経験の応用には変わりない。紙コップを貼り付けるというのも、それ以前に、葉っぱを貼り付けたり、ボタンを貼り付けたりして、作品を作ったことがあるから。

だから、例えば「地域活性のイベントのアイディア」とか「未来の夢のまち」など、子どものアイディアを、最後には大人が実現できる形に加工して、実現しようと思うようなテーマでは、自由なアイディアは出にくい。知っていることの中から出てこないから。

しかも、本当に子どもの考えを生かしたい、だから、小学校高学年くらいだったらどうだろう・・・なんて考えると、余計に難しい。小学校高学年くらいは、もう大人の社会の常識も充分に知っているので、常識に適うことしか言わない。むしろ大人の方が、「あえて常識をはずす」ことができるけれど、小学校高学年は、なかなか、やらない。意識的に枠をはずしている大人よりも、むしろカタいことも多い。

だいたい、アイディアを出す、というのは、そんな風に、「自由にぽっと思いつく」ってことではないんだよね、と長らく企画の仕事をしてきた立場からは、声を大にして言いたい。アイディアは思いつきではない。諸条件に合わせ、自分の経験知見のなかから必要なことを組み合わせ、実現可能なものを、提示していることが多いんだよね。

子どもたちの活動の場では、彼らの発想に驚かされたり、感動したりする場面は多いけれど、それは、大人の都合に合わせて活用できるものではないと思うんだよね、というお話でした。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?