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じいちゃん七回忌

「家族が集まらないといけない気がする日」
パッと頭に浮かぶのはどんな日だろうか。

年末年始、お盆はこれの定番。
誰かの誕生日、記念日、その他もろもろ、家庭によってさまざま。
世間の雰囲気や家族の暗黙の了解で、いつもはそれぞれ勝手に暮らしている家族が、なんか集まる日があると思う。

その中でも、今日は少しレアめの日。
じいちゃんの七回忌だ。

父からこの収集号令がかかった時、私は「もうそんなに経つのか〜」と定番の考えに思いを馳せつつ、喪服を探した。
無い。
いや、そもそも買ってなかった。
じいちゃんが亡くなって葬儀に出た時は、母の昔の喪服をきて乗り切ったんだった。

とりあえず父に「喪服とかないよ」と声をかけると、「そんなんいらんよ、黒っぽい服で良い。」というので、普段のお出かけで一張羅として着ている黒いワンピースを着ることにした。
そのままだと柄が派手すぎるかと思い、母のクローゼットから黒のジャケットを引っ張り出してきて、羽織る。

もう七周忌だというのに、お通夜の時とほぼ同じ急ごしらえ喪服になってしまった。

喪服を準備しておくのは、誰かが亡くなるのを待っているみたいで失礼だ、みたいな話があるせいで、私はまたこんなことになっている。
誰だ、この言い伝えをスタートした人は。誰にとっての得なんだ。

この言い伝えをスタートさせた人と、冠婚葬祭のマナーを考えた人は絶対に別の人なんだろうな。だってそうじゃないと、矛盾がすぎるもん。

喪服事前準備失礼論の人と、冠婚葬祭服装マナーの人、ご本人同士で戦ってみて欲しい。それで、買った人の方だけを令和のマナーとして世の中に再配布して欲しい。両立は厳しいと思うから。
(ここで重要なのは、それぞれの派閥の人が戦うのではなく、提唱者本人が戦って欲しいということです。言い出しっぺが責任を取るべきだから。)

なんとか見た目をどうにかした私は、足が悪くなった祖母と共に車の後部座席に座る。
祖母は体全体を使ってよじ登らないと車に乗り込めないので、「ちょっとこれ持っといて」と荷物を渡された。

渡された荷物は、品のある紫の風呂敷に包まれた祖父の遺影だった。
風呂敷がぴったりサイズすぎて、空いた隙間から祖父の顔がのぞいている。
まさかこれも急ごしらえなのでは無いだろうか。
いや祖母に限ってそんなことはないか。

祖父の遺影だと気が付いたら、ぞんざいに扱うことはできずに自分の膝の上に置いた。すると、ブワァと頭の中に一枚の写真が浮かんだ。

祖父が幼い私を膝にのせて、新聞を読んでいる写真。

その写真が鮮明に頭に浮かんだ後、とても自然に「じいちゃん、今度は私が膝に乗っけるばんになったんやね」と思った。

でも実は、私にじいちゃんの膝に乗っていた記憶は無い。
その写真をみながら祖母に「あんたはいつもじいちゃんの膝にのっとったんや」という話を何度も聞かされて「そうなんや」と刷り込まれているだけ。

かわりに覚えていることは、じいちゃんは私に手作りの砂場を作ってくれたり、私がお絵描きする用の裏面が白いチラシをわざわざ集めておいてくれていたことだ。

私はあまり、宗教に熱心ではない。
今日唱えてもらうお経のことも、冠婚葬祭のルールも詳しくない。

でも、祖父のこと、亡くなった人や犬猫のことを思うのは好きだ。
自分がその、亡くなった人や犬猫を本当に愛していることを再確認できるからだと思う。

今日は12月とは思えないくらいに暖かい日だった。
きっと私の膝の上は、ちょっと暑かったろうな。

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