日中平和友好条約

日中平和友好条約40周年に寄せて

今日、2018年8月12日は、日中平和友好条約締結40周年の日です。
日本と中国は隣国という立場もあって、様々な過去を共有してきました。
違う立場で経験したその過去から日本、中国がそれぞれに制定した「歴史」はこの両国の関係を過度に感情的なものにしてしまうこともあるようです。
しかし、歴史をできるだけ事実に基づいて注意深く振り返ることは、実験が不可能な国際関係や政治を見る上で大事なことを教えてくれます。
条約締結40周年を機に、ここで一度日中平和友好条約を振り返り、現状分析に役立ててみませんか?

本記事では日中平和友好条約の締結に至った流れを紹介したのち、いくつかの現代の日中関係及び国際関係を見る際に役立つと思われる視点を提示します。1978年に締結された日中平和友好条約は1972年に発表された日中共同声明とほとんど同じ文面であるため、日中共同声明から話を始めていきます。

・日中共同声明ってなんだっけ?
日中共同声明で国交が正常化したのですが、中華人民共和国の成立以降20年間以上、民間での関係は続いていました。また、1964年に日本社会党副委員長の佐々木更三が訪中し毛沢東と会談するなどしていました。この時毛沢東が「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。」と話したのも有名ですね。もちろんその真意は解釈が分かれますが。このように社会主義国であるという要因もあってこういった外交は「野党外交」と呼ばれていたりもしました。

・なぜ、1972年というタイミングで国交が正常化したの?
そこにはアメリカが関係しています。
1951年、吉田茂は「吉田書簡」をアメリカの国務大使ダレスに提出していました
その書簡には、「日本は中国との全面的な政治的鄭和及び通商関係を希望する。中国国民政府とは国交正常化する準備がある」との旨が書かれており、最後は「わたくしは、日本政府が中国の共産政権と二国間条約を締結する意図を有しないことを確信することができます。」と締められています。(国民政府との講和に関する吉田書簡、データベース「世界と日本」、日本政治・国際関係データベース、政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所より)
当時中国には、資本主義国民党と共産党という二大勢力があり、中国の統治権を巡って国共内戦と呼ばれる内戦を行なっていました。アメリカは民主主義を支持する国民党を支援していたので、日本に対して1951年には既に台湾以外の中国ほぼ全域を支配し実質内戦に勝利していた共産党を中国の政権と認めて国交を結ばないように求めました。そのような背景で、ダレスの説得によりこの吉田書簡は書かれることとなりました。
この書簡により共産党政権とは国交を結ばないことを宣言していたために日本は中国と国交を正常化していなかったため、1972年の「ニクソンショック」と呼ばれる米中相互承認を受けて、すぐに共産党政権の中国と国交正常化に動いたのです。
ここでアメリカと中国が相互承認を行なった理由はソ連が絡んできます。
「修正主義」に動いたロシアと共産主義をさらに進めようとする中国の間のイデオロギーの対立、また国境を接する二大国間の権力闘争として中ソ対立が起きたからです。
これまでは米ソ冷戦において中国は同じ社会主義国家としてソ連側でアメリカを仮想敵国にしていたのですが、この中ソ対立より、アメリカと中国は接近するようになったのです。
このように、日中国交正常化は少なくともアメリカ、ソ連という二カ国の影響を受けており、二カ国間関係にも複数の国家が絡んでいることがわかります。
また、日本に何も知らせなかったのは、佐藤栄作首相とニクソン大統領が行なったある取り決めが履行されず、ニクソン大統領が怒っていたからです。それは1969年の沖縄返還交渉でアメリカが「1972年の核抜き本土並み」と言った日本が提示した条件をのむ代わりに、日本はアメリカに繊維製品の輸出に制限をかけるといった取り決めなのですが、ニクソン大統領に対する佐藤首相の「善処します」と言った返答を通訳の人が誤って「I will do my best」と訳したこともこの不履行の一因でしょう。「善処します」の意味は言葉通りではないですからね。このような言葉のニュアンスよる誤解はのちの日中関係でも起こり、実際に国家間関係を混乱させてしまうのです。

・なぜ条約として締結するまでに6年間かかったの?
それは中国が提案する「覇権条項」に対し日本が妥協して、「第三国条項」を中国に受理させるのに時間がかかったからです。
「覇権条項」とは、「日中両国間の国交正常化は第三国に対するものではない。両国のいずれも,アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく,このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは集団による試みにも反対する」という条約第七項で、その冒頭の「第三国に対するものでない」が、日本が交渉ののち中国に認めさせた「第三国条項」です。
1968年のチェコ事件を機に中国はこの「覇権条項」を唱え始め、1972年の米中共同声明で謳われるようになったことから、反ソ連の側に日本を引き入れる意図があったとわかります。しかしこの時期のデタントを活かしてソ連と北方領土問題を解決したかった日本はここでソ連の反感を買いたくありませんでした。よって宮沢喜一首相が反ソ連ではないことを主張した「宮沢四原則」を提示し、中国に妥協するよう求めました。中国は、最初は妥協案に反対していましたが、毛沢東と習近平が続いて亡くなり、鄧小平も天安門事件で失脚し、経済重視路線が取られるようになると、中国は交渉を受け入れるようになりました。そこで日本の提案する「第三国条項」を入れることで話がまとまり締結に至りました。

これが、日中平和友好条約が締結に至るまでの流れです。ではここから何が読み取れるでしょうか?
歴史から何を読み取るかは、事実を歴史として体系化した、その歴史を読み取る人によってもちろん異なります。
ここでは参考文献や私自身が今まで大学で学んだことに基づいて、現代の日中関係及び国際関係を見る際に留意すべきだと思われる点を提示します。

● 二国間関係は、実は複数国の利害が絡み合った結果作られる関係である
● 互いの言語や文化の理解不足・錯誤は政治問題を引き起こすこともある
● 外交政策は、国内政策の影響を受ける。また、政府が組織である以上その決定過程で多くの人が関与し、変質することもある。
● ここでは一旦保留することで時機が熟し、さらに日中相互に妥協したこと平和条約の締結につながった。「棚上げ」は意味を持つかもしれないし、平和は主張を通すことにより作られるのではなく粘り強い交渉と妥協の産物かもしれない。

【最後に】
大学で政治学を専攻し、政治学及び社会学の本を読んでいると、歴史が今までと違う見え方をするようになりました。その歴史が教えてくれたことによって、テレビや新聞が何を取り上げ、また何を取り上げないか、またどう報道するかに対し違和感を感じるようにもなりました。そこで、今回は日中平和友好条約の締結に至った流れという歴史を取り上げ、このような記事を書かせていただきました。
例年になく暑いこの夏、皆さんもちょっと引きこもって政治学の本を読んで見ませんか??? きっと新たな視点で世界情勢を見れるようになるはずです。

〈参考文献〉

『国民政府との講和に関する吉田書簡』データベース「世界と日本」、日本政治・国際関係データベース、政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所より

岡部達味『日中関係の過去と将来』(2006,岩波現代文庫)

村田晃嗣『戦後日本外交史 第3版補訂版』(2014、有斐閣アルマ)

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