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その「悲しみ」は、本当に悲しみか?

ふと、込み上げてくる「涙」に対して、通り一辺倒に「悲しみ」という感情を紐づけていないだろうか?

とくに、身体の調子がちょっと優れないときとか、他者から期待された(そして自分もコミットした)タスクのタイムリミットが(同時並行的に)迫っているときとか。

いわゆる「ダウナー」や「いっぱいいっぱい」と自分が認識している状態のときに、急に内から湧き出てくる「涙腺決壊」のサインのことだ。


もうアカン、限界だ・・・
キャパオーバーだ、なんて自分は無力なんだ・・・

放っておいたら、こんなふうに、どんどん自分を責める責める。
ただし自分を責めるにも限度があるので、ある一定程度まで達すると「過去」に原因探しをしに旅立ったりする。

「あぁ、あのときのトラウマが、今の悲しみ(=涙)につながっているんだ・・・!だからわたしは今、悲しいんだ・・・!」


まるで大発見のように思えるが、それって強引に紐づけちゃいませんか?「涙」と「(過去の経験データから弾き出された)悲しみ」を。

嬉し涙、悔し涙、悲し涙

とかく「涙」は、何かしら”極まった”ときに出る。


じゃあ、その”極まり”って何よ?と問うたときに、何の意味づけもなされていないけれど、確かにそこにある「大きなエネルギー」ではないかと思う。

ただ、そんな得体の知れないエネルギーが自分の身の内側から出てくることに対し、「理解」をしたいと思ってしまう。

だから、無理矢理にでも感情を結びつけて、「わたしは悲しみに暮れている」とか「わたしは寂しい」などと意味づけるのではなかろうか。


ではなぜ、そんな明確な意味づけをする必要があるのだろうか?
やはり、他者(受け取り手)の影響が大きい。

「なんで泣いてるの?説明して」
「それって、〇〇だから悲しいんじゃないの?」

と、涙する本人が吟味する間もなく「明確な答え」を求められた場合、(相手との関係性にもよるが)回答を急いで安直な答えを出してしまうかもしれない。


反対に、

「なんかようわからんけど、涙出てんねん」
「そうか、出しとけ出しとけ」

と、そのままに寄り添って受け取ってもらえた場合、涙する本人の自己認識はむしろ主体的に進む。


「涙と共に込み上げてくる何か」に対し、真の正体と意味づけを行えるのは本人だけである。


込み上がっている人を目撃したならば、天から啓示を与える、というスタンスよりも、「とりあえず焚き火囲んで一緒に味噌汁でもすすろうぜ」と、隣でただ見守る存在でいたいと思う。


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