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vol.6 灯り

東京に着くといつもと違った空気が流れていた。電力が足りず大規模な停電が起こると言う事で、計画停電と節電が始まっていたのだ。
煌びやかなネオンで溢れていた東京の街は薄暗く、沈んでいる私の心を更に暗くした。

持って歩いているキャリーバッグがやけに重く感じる。会社の近くの商店街まで辿り着いた時、足が勝手に神社に向かっていた。
会社をまだ少ない人数で切り盛りしていた時に、社長含め、スタッフ皆んなで事あるごとにお参りしていた神社だった。
神社の石段を背にし、重いキャリーバッグを両手で引っ張り上げ、背中向きで一段、一段上がっていく。
境内まで登り詰めると社殿の前に立ち、賽銭箱にお賽銭を入れた。形はいつもと同じだが、気持ちはいつもと違っていた。

私は、神社仏閣に行ってもお願い事をしない。
何故なら、私の中で夢は目的であり、欲しいものは自分の努力で掴むものだと思っているからだ。
その変わりに感謝を伝えることにしている。
今日まで大切な人や自分が平穏に生きて来れたこと、そのお礼を言うのだ。
だからお賽銭はそのお礼の気持ちだと思っており、お賽銭を入れる時には必ず、
『五十の縁をありがとうございます』
『百の縁をありがとうございます』
と、心の中で呟き、手に持った硬貨の数の〝円〟を〝縁〟に変えて賽銭箱に投げ入れていた。
それが常識的に合っているのかどうかは分からないが…

私は社殿に向かい深く目を瞑り、手を合わせた。

〝どうか安らかに、どうぞ安らかに…〟

すると、目を閉じる度に繰り返されていた津波の映像がピタリと止まり、真っ暗に閉ざされた目蓋の裏には何も見えず、その時だけは気持ちに集中できた。
けれども、それ以上の言葉が浮かんで来ない。
震災で亡くなられた方々へ何と言ったら無念が晴れるのか、安らかに眠る事が出来るのか、どんな言葉なら適切なのか全く分からなかったからだ。
これまで積み上げてきたものが一瞬にして無くなること、当たり前だった日常が目の前から消えること、大切な人の命が奪われたこと、明日も生きていたはずの人の命がもうそこには無いことに…

私は、短い言葉を何度も何度も頭の中で繰り返した。そして最後に、〝皆んなが無事でいられるよう、どうか見守ってください〟そう呟いた。
こんな時、自分の力ではどうしようもないものに人は祈り願うことしか出来ないのだと言うことを思い知らされる。
それでも、亡くなられた方々を悼まずにはいられなかった。

キャリーバッグを両手で抱え、一段、一段を踏み外さないよう気をつけながら降りて行き、会社へと向かった。
事務所の扉を開けると皆んなの視線が一斉にこちらに集まった。何故だか、一人、一人の瞳がキラキラと輝いて見えた。

「お疲れ、お疲れ。東京は暗いでしょう?計画停電で途中、停電しちゃうしさぁ~、仕事にならないよ」

私の姿を見つけるなり、社長が誰よりも早く声を掛けて来た。

「お疲れ様です。皆さん大丈夫でしたか?もう、心配で、心配で…」

私が言うと、

「ビルが倒壊するんじゃないかと思って慌てたんですけど、外に出た方が危ないって言って皆んなで机の下に潜ったんですよ。本当、怖かった〜」

内勤の女性がそう話してくれた。
続けて社長が、

「でも俺、一つだけ良かったと思うことがあるんだよねー。○○くんには悪いけど、部長を仙台から名古屋に変えて良かったと思ってさぁ。仙台の○○くん、交通機関が麻痺しちゃてるから帰って来れないんだよ。街全体が停電しちゃってて水も出ないんだって…店も閉まってるから食べ物も買えないし、余震が続いてるからホテルのロビーで宿泊者全員、毛布に包まって震えてるらしいよ。
いゃ〜、これが部長じゃなくてほんと良かったと思ってさぁ」

と、仙台の社員の様子を教えてくれた。
どう考えても良くない状況の中で、一つでも良かったことを見つけ社長は私を鼓舞しようとしてくれているのだろうか?

そうだった…
スケジュールの変更に辟易とし、苛立ちさえ感じながら名古屋へ向かい、数字のことばかり考えていたところでこの状況になり、すっかりと忘れていた。
スケジュールが変更されなければ、私が仙台にいるはずだったのだ。
仙台のスタッフの不憫さを考えると居た堪れなかったが、社長を始め、内勤スタッフの熱く突き刺さる温かい眼差しに捕われ、私は困惑しながらその場に立ち尽くしていた。
その日、社長が会社に居た営業スタッフに私を家まで送るよう指示し、男性スタッフが社用車で自宅まで送り届けてくれた。

次の日の現場は都内だった。

こんな状態の中で宝石〝なんか〟が売れるのだろうか…などと、一瞬、不安めいた気持ちが頭を過ぎった。
しかし、それを考えだすとその時点で負けが決定する。私は考えを打ち消すように頭を振った。
通常、宝飾ケースの上には宝石を照らす為のスポットライトが神々しく明かりを放っているが、節電の為、スポットライトは外され、卓上ライト、しかも読書灯が置かれた。
薄明かりの中で来店客を待つが、店の努力虚しくお客様は来ない…
その後も余震が続いていた東京の百貨店は、通常営業ともいかず閉店時間を早めることにした。
午後6時の閉店時間の直前、社長から連絡が入った。

「店の前の大通りに車停めてるから、終わったらそっちに出て来て…」

何事かと思いながら、社長の運転する車に乗った。社長は何を話す訳でもなく、たわいも無い話しをしながら会社へと向かった。
次の日も、次の日も…
結局、都内の開催が終わるまで、社長は毎日私を店の前まで迎えに来てくれたのだった。
都内での展示会は、1週間で1本しか販売出来なかった。全体の数字を管理している立場の私は、本来ならば焦りが生じているはずだった。
けれども、心は抜け殻のように何にも動じず、暗闇を彷徨い続けているような状態が続いた。
持っていた数字に対する執着とバイタリティは、何処かへと置き忘れてきたようだ。

翌週は顧客様が大勢いる神奈川の百貨店での開催だった。
同じく節電対策に転じている館内はやはり薄暗かった。顧客様が来店される度、震災時の状況を確認し元気な姿に胸を撫で下ろした。
ここでも、自分がやらなくてはならないはずの重要なことは置き去りにされたままだった…


震災から12日後、やっと仙台にいたスタッフが東京に戻って来れた。仙台から東京へ向かう手段は未だなく、山形経由で戻って来たそうだ。
その日、現場から会社に帰った私は、仙台にいたスタッフと顔を合わせることが出来た。
スタッフはげっそりとした顔つきで、ひと回り小さくなったような気がした。

「大変だったですよね…ほんとに無事で何よりです」

そう言った私に、

「いゃ〜、仙台行ったのが部長じゃなく、僕でほんとに良かったです。何日間もホテルのロビーで雑魚寝させられて、最後、食べるものないから皆んなで一つのスナックちょっとずつ分け合って食べてたんですよ。一番困ったのがトイレで、汚物が溢れてしまって女性だったら大変なことになっていましたよ。不幸中の幸いでその中に女性がいなかったので本当に良かったと思います。あの中に、部長がいたと思ったら考えただけでゾッとしましたよ」

凄まじい状態からやっと帰って来たスタッフ。
それなのに自分のことよりも私がそこに居なくて良かったなどと、こんな時にそんな話しをされた私は、どう答えたら良いのか分からず戸惑いを隠せなかった。
この当時、会社は東北地方の百貨店との取引が多かった為、百貨店自体が閉店を余儀なくされ、私達の仕事も同時になくなった。
その為、仙台にいたスタッフを含め、東北地方から戻って来たスタッフ達を、社長は一週間休ませる事にしたようだ。

翌日、私は次の現場、沖縄へと向かった。

羽田から飛行機が飛び立つ時、仄暗い東京の夜景を見て更に気分が沈んだ。
上昇する機体と共に小さくなる灯りを見て、自分だけそこから逃げ出しているような気持ちになった。

那覇空港に向けて降下しだした機体の外を見るといつもと変わらない沖縄の風景が見えた。
空港に降り立つと、いつもと同じ独特な匂いが身体中を包み込んだ。その香りが張り詰めていた緊張の糸をほんの少し解したようで、塞ぎ込んでいた心に染み渡った。

沖縄の開催は一番信頼している販売スタッフとの2名体制だった。長崎が住まいの彼女は、震災の日は休みで長崎でその様子を知ったのだった。私の安否を気遣ってメールをくれた一人だ。
店に着くと店内は明るく、いつもと変わらない光景が目の前に広がった。
先に着いていた彼女は、イベントの設営を行なっていたが、人の気配に気付いたのか振り返った。
後ろに立っていた私と目が合った。
その途端、手元の什器を放り投げこちらへと両腕を広げて駆け寄り、私の胸元へ思い切りダイブした。小柄な彼女は私の身体にすっぽりと収まる。
たまに、こうやって私にしがみつく彼女。
こんな風に愛情を表現出来る彼女が私はとても羨ましく思う。その日は心持ち抱きついている時間が長かったように感じた。
腰回りに感じていた力が緩み下を見ると、ゆっくりと顔を上げ一歩下がった彼女は、

「東北、大変なことになっていますね。本社や他の営業さん達は大丈夫ですか?私にはあまり情報が入って来ないので心配で、心配で…しかもあの時、部長は仙台に行っていらっしゃると思っていたので心臓が止まるかと思いました。メールも届かないかもしれないと思ったんですが、居ても立ってもいられなくて…大変な時にメールなんか送ってすみませんでした」

少し潤んだ瞳でそう言った。
私が男だったなら、恋に落ちてしまいそうなシチュエーションだ。
今だからそう思えるが、その時の私は、

「東京がね…暗いの……」

と、魂の抜けたような表情でぼそりと呟いたそうだ。自分でも覚えているが、今でも彼女からもそう言われる。

イベントが始まった。
早朝から続々と顧客様が来店された。

「貴方達、地震は大丈夫だった?会社は大丈夫なの?」

会社が東京にあるメーカーであることを知っているお客様方は口々にそう言い、私達の顔を見て安堵の表情を浮かべてくれた。
いつものように接客をしていると、お客様方の行動に変化が見受けられた。

「これにするわ!」

いつもよりも単価の高い商品の購入や、前回購入されたばかりだから今回は難しいかな?と思っていた顧客様の購入。
まるで、それぞれが宝石を買いに来ているように思えた。

「東北に水とか食料を送る手配をしたんだけど、輸送が困難で届くのに1か月はかかるって言うのよ…今、必要な方がたくさんいるでしょうに…
沖縄は特に遅くなるのよね」

不満そうにそう教えてくれた顧客様。
続けて、

「東京から先は皆さん仕事にならないんじゃない?特に東北地方は元通りになるまでにかなり時間がかかるでしょうから、西が経済を支えないとね。かと言って、私に何が出来るって訳でもないけど、せめてお買い物してお金を回さないと…
もちろん寄付もしたわよ。けれど、こちらまで自粛してたら皆んなで共倒れるじゃない。どうせ買うんなら貴方達から買ってあげたいと思って今日は来たのよ!応援してるからね!」

そう仰った顧客様は一人ではなかった。
私はその言葉を聞いて激しい衝撃を受けた。

沖縄が返還されたのは1972年。
戦争を体験し、日本に返還された沖縄を作り上げて来た方々。その方々の言葉にはずっしりと重みがあり、揺るぎない強さを感じた。
この時沖縄に行っていなければ、このような考え方もあること自体に気付くことさえ出来なかったかもしれない。
私の仕事が宝石屋〝だから〟こそ、それを手にするお客様方とこうして知り合うことが出来たのだ。教えを授けてくださったお客様方に私は心から感謝した。
そして、私にも出来ることがあるじゃないか…
そう思った。

すると次の瞬間、心の中に蝋燭の炎のような明かりが灯り、私を支配していたものが身体の中に溶けていくのを感じた。
お客様方のおかげで、漸く現実を受け入れることが出来たようだ。
突然頭の中を名古屋から戻ってからの日々が走馬灯のように駆け巡り始めた。
東京にいた社長をはじめスタッフ皆んな、私よりも強い揺れを体感しとても怖い思いをしたはずだ。それなのにあんなに明るく出迎えてくれた。
一刻も早く家路に着きたかったであろうに、私を家まで送ってくれたスタッフ。
毎日、毎日迎えに来てくれた社長。
不自由な環境に耐えて戻ってきたスタッフの言葉。誰一人として俯いた様子を見せてはいなかった。明るく装うことで誰もが不安や悲しみと闘っていたに違いない。
被災された方々のことを考えると、立ち止まっている場合ではなかったのだ。
それなのに私は、やれることを探そうともせず何を甘えていたのだろう…
全てを破壊する力を持った大きな相手に恐れ慄き悲しむだけで何もせず、時間を過ごしてきた自分に無性に腹が立ってきた。
それと同時に、やるべきことが鮮明に頭に浮かんだ。


沖縄の開催は予算を遥かに上回る結果となった。お客様方の〝一緒に乗り越えよう〟と言う気持ちが数字と言う形ではっきりと現れたのだった。


沖縄から東京へと向けて私を乗せた飛行機が飛びたった。
約2時間後、羽田に向かって降下を始めた機体。
窓の外を見るとポツリ、ポツリと白く光る灯りが見える。それは最小限でこれまで何度も見て来た絶景とは程遠かった。
けれどもその時の私には、近づいてくる白く小さな灯りが〝足元を見失わないように〟と言わんばかりに、絶対に消えてはなるまいと力強く光を放っているように見えたのだった…


〜続く〜

百貨店を舞台に、出逢えたお客様に販売を通して教えてもらった数々の〝気づき〟による自身の成長記録と、歳を重ねた方々の生き方を綴っています。出会った順で更新していますので、私自身が少しずつ成長していく変化を楽しみながら百貨店の魅力も感じて頂けたら幸いです。 日曜日に更新します!