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時代に生きる私の志願

 私たちは今、何不自由のない恵まれた生活に知らないうちに慣らされているような感じを持ちます。今から20年前の著書にこんな記事がありました。


今の日本人は、勤勉で誠実な性格で、労働と貯蓄に励み、長寿と富の両方を手に入れ、安全と衛生的で、平等と快適な生活が送れるように努力した。
吉田浩著『日本村百人の仲間たち』(二〇〇二年・日本文芸社)

 20年経過した今日もその姿には変わりなく、願いはますます膨らんでいるように思います。勤勉さは今日の科学産業を大きく変えてまいりました。スマホ社会・ロボット社会が到来し、コロナ禍ではオンライン労働・教育がだんだん日常化しています。
 また超高齢化社会が到来し人生100年時代が目前となりました。より以上の快適さを求め、そしてさらなる経済効率主義が幅を利かせる社会が続きます。私たちが今日まで追求してきた歩みの原点を今一度再確認することが求められているように思いますがいかがでしょうか。
 私の歩みを考えるとき、快適で豊かな社会を形成したのは私の力によるものであるという自信・我執が心の底に動いてはいないかということがあります。したがって作り上げた豊かな社会を阻むものは許さないという敵対意識が生まれ、生き辛さを感じてしまいます。さらに、私たちの幸せ願望・欲望追及は限りなく続きます。特に経済効率優先の社会に拍車がかかると弱者を切り捨て、その実現に関わる多くの犠牲・陰の力がないがしろにされます。自然環境を崩壊に導き、地球温暖化を招いたのも事実です。このようなあり方に真正面から取り組んでいくことが私たちの課題ではないかと思います。
親鸞聖人は「正信偈」に

貪愛瞋憎之雲霧  (貪愛・瞋憎の雲霧) (『真宗聖典』二〇四頁)

と述べられます。この雲霧こそが時代に生きる我々の歩みに覆いかぶさっていると思われます。それはどこまでも満たされることのない貪欲に執着する煩悩であり、消えることはありません。そしてもう一つは燃え盛るよな、自分を中心に考える我執があります。ある時は正義という形で自己主張をします。そこには必ず争いが生じます。これが瞋恚という煩悩です。現代の我々の生きざまを振り返るとき、わが身に覆いかぶさっているのがこれらの煩悩でしょう。ここで確認すべきは、このような貪欲・瞋恚の雲霧は決してなくならないということです。
 さて、この混迷する時代社会を歩む我々に仏様は願いをかけておられます。それは悪趣(地獄・餓鬼の世界)から離れることの願いです。しかし願いがあったとしても私の生活は煩悩に覆われています。ただ残された道は煩悩熾盛の身を抱えた中から、このままでよいのか、本当の生き方はこれでいいのかという、心の底から動き出す願いを聞かせていただく以外にはありません。そのことを宮城顗(みやぎ・しずか)先生は「志願」と言われました。いただいた命の中に目を出そうとしている志願です。この志願は報恩講でのお念仏の響きに重なるものではないでしょうか。

※本内容は2022年テレフォン法話で配信された内容です。
池井 隆秀(いけい・りゅうしゅう)/いなべ市北勢町・佛念寺住職


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