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花束みたいな本を読んだ

三宅香帆「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」

「パズドラしかやる気しない」
Amazonプライムで何気なく見た「花束みたいな恋をした」の主人公のセリフで我が身を振り返ったが、この本で同じような思いをした人が多かったということを知った。

学生の頃、好きなことは趣味でしようと決意した上で就職した。しかし、生活と文化と仕事は、常に相容れない。

仕事と文化の対立は「組織に所属して金銭を生む行為=仕事」と「個人が優先される金銭を産まない行為=文化」というように単純化できる。ミュージシャンや映画監督のような人たちは、仕事と文化の狭間で葛藤しているように見える。文化が社会に影響を与えるために、必要な役割とも言える。この葛藤を圧倒的な力で受け入れる覚悟があるのが、プロだと思う。自分は、早々にあきらめた。

本書による一番の発見は「仕事を一生懸命やっている自分」が、時代によって作られたものだということだ。本書では時代を追って、労働と読書の関係性が描かれている。我が身を振り返ると「努力は裏切らない。一人はみんなのために」という学校教育(少年ジャンプも?)によって啓蒙されてきた。これは、「会社に逆らわず、真面目に働く」人材を求める時代の要請に基づくものだったと感じる。
大衆的な娯楽の多くは、時代の空気に呼応する。それを浴び続けることで、時代に合った人間が出来上がる。当然、それに反発する人間もいるが、反発するということも、その価値観の影響下にあることと同じだ。
時代に抗うためには「読書」という、時代を超越した思想を取り入れる行為が、有効なのかもしれない。しかし、長年労働者として生きてきた今、その思想は、遠き日の憧れのような虚しさを覚える。
それでも「仕事を一生懸命やることが正しい」という価値観が、自分発ではないと分かったことは、大きな思考の転換につながった。

本書では、難しい問題も扱っている。エリート階級と非エリート階級という問題だ。
「お金をもらって、生活できることに感謝しなくてはいけない」という圧倒的な正しさをどう考えるか。よく引き合いに出される「アフリカの子どもたち」を前に、「本が読めない」ことは、贅沢な悩みと捉えられてしまう。「生活できない」という悩みを前に、哲学者の苦悩は小さなものとされてしまう。しかし「生活できない」ものを生んでいるのは、多くの場合「本を読める」ものたちが、苦悩しないせいだ。生活者の視点が哲学者を拒み、結果的に生活者自身を苦しめるという事象は、繰り返し起きている。

エリート階級と非エリート階級という名称から、上下の関係が漂うが、階級的分断ではなく、思想的分断が大きな問題なのだろう。生まれた家に、本や音楽がたくさんあり、文化に触れる機会を多く与えられてきたものと、そうではないもの。その違いによる価値観の違いが、予想以上に大きいものだと知った。
この壁を曖昧にする唯一の方法が「読書」なのだろう。
最近の大学受験において「読解力」が強く求められている。しかし、これは、エリート階級から世界と戦うための超エリートを選抜するテストに見える。

友達との本の貸し借りや、図書館や図書室という公共空間に存在感があった過去に比べて、スマートフォンの先に広がる自分の興味に閉じ込められた世界は、本書が言うところの「ノイズ」が入り込む余地が少ない。生まれた環境に沿った形で、お金をなるべく使うように純粋培養される流れができている。
ただし、エリート階級が幸せで、非エリート階級が不幸という単純な図式ではない。長くなりそうなので、今は「学級委員が幸せに見えたか」という言及にとどめておく。

「花束みたいな…」の麦は、時間術のような空気をまとったタイトルの新書である本書を手にとって、学生感覚を取り戻すかもしれない。もしくは、あとがきだけを読んで、何も感じないかもしれない。自分は前者だった。最近は読書量が減っていたが、偶然の読書でプレゼントのような本に出会った。実用書だと思って読み始めて、「無用の用」を思い出した。

「全身全霊で働くことをやめる」という本書の提案は難しい。「同僚に迷惑がかかる」というムラ社会的思想が理由だ。それでも、無理をしそうになると、この言葉がよぎるようになった。せめて、職場を離れた時間で仕事を考えず、趣味に生きると決意したあの頃の気持ちを、もう一度奮い立たせている。そして、ノイズにあふれている書店や、街をぶらつくようになった。健康で文化的な生活を取り戻す、良いきっかけになった。

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