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母の命日に思い出したこと

先日、母の命日でした。

もう何年経つのだろうか。数えなければわからないぐらいになりました。阪神淡路大震災の半年ぐらい前に亡くなったので、26年前ですね。

母親が亡くなるということは、もう子どもではいられなくなるという意味を持つことが多くの人に当てはまるかなと思いますが、私がまさにそうでした。母が亡くなった当時、私は会社勤めをしていて父と同居していました。会社勤めしている時点でとっくに大人になっていると言えるのですが、今から思い出してもどう考えても子どもだったと思います。いろいろな面で。父は、母のことをとても愛していました。母の言うことなら何でも聞くというぐらいに。たまには喧嘩もしていましたが、最後には母のぴしっとした一言で終わる感じでした。喧嘩と言っても大抵は父がぐじぐじ文句とか愚痴とか言って、母に八つ当たり気味になり、最後に「いい加減にしとき」と言われている、そんな感じでした。

亡くなる4年前に自分で乳ガンだと気づき、手術したのですが1年後リンパ節に転移。放射線治療をして身体全体が弱ってしまっていたような気がします。それからは、毎年春になると調子が悪くなり病院で桜を眺めていました。亡くなった年は、4月に入院することはなくとても喜んでいました。5月の連休には大学生だった弟が東京から帰ってきていて、母が「家族で出掛けたい」というので車で京都の植物園に行きました。北山のカフェで食事をしてとても喜んでいました。

植物園に行った時の写真を見ると、抗がん剤の副作用で髪は短く、左腕がむくんでいました。当時もわかっていたのですが、母がいつも明るく楽しくしていたので、まだまだずっと一緒にいられると信じていました。信じるというよりもその2か月後には亡くなっているかもしれないとは思ってもいませんでした。

とてもおしゃれな母だったので美容院でも短髪を生かした髪型にして、とお願いして「セシルカット」になった、フランスの女優さんみたいと喜んでいました。本当にかわいらしい母でした。

亡くなる少し前も、体力が随分無くなっていたのでしょう、家でよく横になっていました。その布団の横で子どもの頃と同じように私は横になったり、座ったりしながらいろいろなことを話していました。子どもの頃、学校であった出来事を全部母に話していました。ご飯の支度をしている横で、「○○ちゃんがこんなこと言ってた。△△くんにこんな風に言われてこう言っといた。」とか。小学校の頃は、何でもかんでも話していたような気がします。母は、飽きることなく嫌がることなく話を聞いてくれ「それはこういう意味で言ってたのかもよ。」とか、結構的確なアドバイスをくれるのでした。母も近所の人との会話や小さい頃からのいろんな話を聞かせてくれました。

「いろいろあったけど、お母さんは幸せやったと思うわ。お父さんも真面目で優しいし、あんたも就職してちゃんとやっていけるやろうし、弟も一応大学行ってなんとか落ち着いてるし。」

布団で横になりながら母が突然言った言葉です。

「もし、お母さんが死んだらお墓を田舎から移すのも大変やし、お墓とかあってもあまり意味がないと思うようになったんよ。だから希望としては、海とかに散骨してほしいなと思って。」と続けて言っていたので、

当時母が死ぬなんてことはすぐにはありえない、まだきっと先の話だろうと信じて疑わなかった私は、「そんな死ぬなんてまだ言わんでいいやん。まだまだ生きてもらわないと!希望として覚えとくけど、私が結婚したら孫の面倒見てくれるって言ってたやん!まだ相手も見つかってないんやから。」とあわてて言いました。

「そりゃ、そうやけどね。」母は笑っていました。「でも、お母さんは今、幸せやと思ってんねん。それを言っとこうと思ってね。」

それからわりとすぐに母は入院しました。診察に行ったら「入院しないとあかんて。今年は入院しなくて済むかと思ってたのに。」とひどく落ち込んでいました。「家が一番いいわ。病院は嫌やわ。」と言うので、「そりゃ、そうやろうけど。すぐ帰って来れるよ。」と私は言いました。まさかそのまま家に帰ってこないなんてこと考えてもみませんでした。

6月1日に入院してからはみるみる弱っていきました。2週間後、担当医から父に話があり、「後半年ぐらいしか生きられない。長くて1年。」と言われたそうです。父は、少し前からある程度は覚悟していたそうなのですが、それでも2、3年ぐらいはと思っていたそうです。私は、そんなこと考えてもいなかったので驚きました。それまでも毎日、会社帰りに病院に寄っていましたが、もう少し容態が悪くなると付ききりで看病しないといけなくなるかもしれないから会社にも前もって伝えといた方がいいということになりました。私は、そうなったら会社を辞めようかなとも思っていました。いくら前もって伝えていても半年間も休むわけにはいかないだろうと思ったからです。

どんなに長引いても母との時間が過ごせるならいいと思っていました。入退院を繰り返してもずっとずっとまだまだ生きていてほしいと思いました。それからもどんどん容態が悪くなり、ほとんど食事もできなくなりずっと横になっていました。亡くなる前日が日曜日で父も仕事が休みで家族全員で母のそばにいました。個室になっていましたが、まだ話はしていました。父が母が起き上がる時に楽なようにと折り畳みの座椅子のようなものを買いに行って座らせようとしましたが、かえってしんどそうで母に笑われていました。「お父さんはまたそんな余計もの買ってきて。」と。でも嬉しそうでした。

月曜日の朝、病院からいろいろと用意するものを言われていたので会社に行く前に病院に寄って届けました。母は、「会社行ってらっしゃい」と言いましたが、あまりにも弱っている様子に側を離れることができず、会社に連絡してその日は休むことにしました。私が「今日、会社休んだから1日いとくね。」と言うと「そう」と言っていましたが、すでにうとうとしているようでした。その日は、ほとんどうとうとしていて、でも時おり話すことやることがとてもかわいらしくて何だか子どもに戻っていくような感じがしました。

夕方、担当医に「今晩から付き添いしてもらった方がいいかもしれません。」と言われたのでちょうどやってきた弟に付き添いを頼んで私は泊まるために必要なものを家に取りに帰りました。母は寝ていました。家に着くとすぐ病院から電話がありました。

「先ほど、息をひきとられました。」

嘘でしょう。嘘でしょう。あと、半年。いえ1年って言ってたでしょう。今朝まで母は、笑っていた。昼間もまだ話していた。嘘だろう。

その日、父は九州出張でそろそろ飛行機で帰ってくる時間でした。近所の母の友人の方々に父への伝言をお願いして急いで病院へ向かいました。

母は、穏やかに眠っているようでした。最後まで一緒にいた弟に聞くと、ずっと眠っていて突然、咳き込んだと思ったら大きく息をして亡くなったということでした。

母はいろいろなことを教えてくれました。私が誰でにでもにこにこして愛想よくしすぎるので「にこにこすることはいいことやけど、八方美人は良くないよ。」と何度も言われた覚えがあります。他にも人を見る目を養っておかないといけない、モノの価値をわかるように、とかなぜか教訓めいたものやことわざみたいな言い回しで話してくれたりしました。母が亡くなってからも「あ、これお母さんが言ってたことやなぁ。」と思ったり、「お母さんに相談したらきっとこう言うやろうなぁ。」とその言い回しを思い出して心強く思うことが何度もありました。

母が亡くなってから阪神淡路大震災が起きて、その後も大変な時代にどんどんなってきています。母は、そういう意味ではいい時代に生きたのかなとも思います。でもやはりもっと長生きして息子ののどかに会って欲しかったなと思います。あ、もちろん夫にもです。夫も母に会いたかったといつも言ってくれていてます。母は肉が食べられず魚好きだったと話すと川漁が得意な夫は、川魚や川海老、モクズガ二など捕ってきたものを食べてほしかったと言っています。

あー、お母さん、もうすぐお母さんの年に追いつきそうだよ。20歳すぎたら自分で自分の顔をつくっていくものだって言ってたけど、私は私らしい顔になってるかなぁ。

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