7-30 悲しみよこんにちは

オナニーを見たいという人間が苦手だ。加えて、そんな気分になどなれやしなかった。自慰行為は見たいと言われて見せるものではなくて、見せたいと思って見せるべきものだという言説を密かに唱え、睡眠につくしかない。彼は「自慰行為の時の、本当に快楽を欲している感じがたまらないのだ」と言っていたが、誰かを悦ばせるための自慰行為は果たして本当に欲して快楽を享受しているといえるのだろうか?

当人はフランス文学を嗜んでおり、 悲しみよこんにちは を僕に差し出してきた。正直読みたいとはならないのだが、早く読めと催促してくる以上、30冊も重ねた積読を横目に手を付けることにした。渡してきたもう一冊の方よりかはましだろう。確かに言葉の並びは上手いと思う。が、内容だ。ソフィーの世界を読んだほうがよほどましに思えるような心地がする、地下室の手記の冒頭を思い出させるような話。思春期に読むのがふさわしいかもしれない。つまり、幼稚だ。ああ、目がくらんだので、この表現はあまりに過激らしい。が、僕にはそれ以上浮かばない。フランス文学を読むんなら、大人しくバタイユを読んでいる方がよほどいい。いや、若い日を想定しているのだから、このぐらいがちょうどいいのかもしれない。17歳でこれか?

まだ第一部だ。第二部でなにかが変わるかもしれないという期待をしつつ、どうしたって俺はこの作品を好きになることはできないだろうという確信がある。これを好きだという当人への冷笑が働かないように祈るばかりだ。

今日の言葉… 愛の歌なんて

彼は哲学のある授業を「自己満オナニー授業だ」とよく言うが、哲学をセックスだと思っているのか?哲学はすべてがオナニーである。自慰行為でしかないんだよ。

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