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『思考都市』を読んで自分と子どもについて

自分はまだまだガチガチだなぁと思った。
こうあるべき、こうしたほうがいい、とか、ぶっとんでいたいのに、抑える癖ができているのかそれにも気づかないうちに蓋をして抑えてる気がする。
いやぶっ飛ぶって難しくないかな。子どもがいるし街に住んでるし。
私は母である前に一人の人間だとか言ってもやっぱり超えてはいけない線はあるんじゃないかな。その線がわからない。それを探しながら生きていくんだろうか?
やりたい、でもやらないほうがいい、なぜ?これならやれるけどそうまでしてやりたくはない、、、じゃあまぁやらなくていっかみたいな。
そうして溜めてきたのがこれまでの私なんだから、そこをもっと探るときなのかもしれない。


子どもたちは日々新しい物事と出合ってぐんぐん成長してる。
親の私の考え方もアップデートしていくのが自然なこと。
…という考えがそもそも縛りなのかもしれないと考えてみる。

末っ子はまだ幼稚園だけど、一人で早起きして目玉焼きを作って食べて遊んでる。
クラスの人見知りの子に声をかけたりして、リーダーシップをとっている。
そのお母さんから「◯◯君のおかげで幼稚園に来るのが楽しくなったみたいです」と声をかけられて感動した。
裸でふざけたり正義感があったりとても優しい。
そんなふうに彼の社会で過ごしていて、それはもう一人前なんだと。

家の中では片付けをしなさいとかあれしちゃダメとか私ルールでやってしまってそれを窮屈に感じてるから無視をする。彼には私の作ったルールが合っていないと考えると、やらせてみたらどうなるのか見てみたくなる。
いや、やらせてみたことはあるんだった。
上の二人にも同じように、三人を放任で見守ってみたことがあるけど、眠った後の掃除が大変すぎて1日でやめたんだった。
文字で書くとなんだそんなことと思えるけど、実際当時はなんか無理だった。

最低限これはしようねとルールを子どもと一緒に考える。
これもやってみた。
うん、でも私がやっぱりそれを続ける持久力がないから子どもも続かないのかなと今思い出してみて思ったので、もうちょっと気長に続けてみようかなと思った。
私にも、見守る、いや見過ぎない、というルールをつくる。守れなくてもふんわりでも続けるラフさは私にはあったほうがよさそうな気がする。

長女は小学校三年生。
『思考都市』に描かれていた坂口恭平さんの小学校三年生のときの過ごし方を見て、自分と、そして自分を縛ることによって子どもをも縛っていることに気づかせてもらいました。

もっと自由でいい。もっと自由が好きなはず。自分の中にある抑えてきたものを思い出そう。掘っていこう。


文章に、絵にぐんぐん引き込まれていたところで、
「くそったれ」
の文字が0円ハウスのスケッチのページに。
このときになんだか急に涙が出てきたのはなんだったんだろう。
それまでのページから感じた何かがこの一言で溢れたのか、なんだかよくわからない。
でも何かが湧いてきたのはたぶんたしか。嬉しかった。

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