大切にしたい人ができたら単焦点レンズが欲しくなった。
暑い、寒い、寒い、暑い、暑い。
基本的に、万年、ゴム草履を履いていたい私は、
「こんないい天気なのに、日和って靴を履いてきてしまった…」とか
「2021年ロシアGPのランド・ノリスが、残り4周で雨が降ってきた気分が今ならよく分かる」とか
そんなどうでもいいことを思って、一喜一憂しながらゴム草履、所謂ビーチサンダルを履いて街へ繰り出している。
ちょっと近くのいなげやに長ネギを買いに行くときも、
六本木の森美術館に行くときも、
銀座の松屋銀座でやっていたももクロ展に行ったときも、
ひたちなかのロッキンジャパンに行くときも、私はいつもゴム草履。
履くシーズンは…とか、そんなの決まってない。
お正月に履いていたこともあるし、夏だけのものではない。
それに、どこのゴム草履でも良いってわけじゃない。
湘南・葉山にある「げんべい」というお店のゴム草履しか、私には興味がない。
だから、私にとってはマーチンやオニツカを好んで履いている人たちと同じ感覚で、げんべいのゴム草履を履いている。
ゴム草履は、私にとっての癒しであり、アイデンティティなのだ。
社会人になり、35℃超の狂ったような熱を帯びた夏の日を過ごしていた時。
「なぜ私は、靴下を履かないといけないのか」と、自問しながら出社した。
通勤途中、他部署で話したこともない先輩がサンダルで出社していることに気がついた瞬間、私が出世したい理由は「ゴム草履を履いて出社したいから」に決定した。
権力欲しいじゃん。ゴム草履履いて出社したって怒られないくらいに。
一方で。
これまでの人生で、女性の口から聞くことが多かったこの言葉の意味を理解した瞬間でもあった。
「休みの日は好きな格好をしたいの」
「誰かのためにこの格好をしているんじゃなくて自分のためにこの格好をしているの」
の、言葉たち。
私にとって、ゴム草履は、自分らしくいるための最重要アイテムであって、
眼鏡をかけている人が「メガネ」と呼ばれ、いじられているのと同じぐらい、「私=ゴム草履」なのである。
どうせなら私のことを「おい、ゴム草履」と呼んで欲しい。
「おい、ビーサン」でもいい。
「はい、ゴム草履です」とは返さないけれど、私はゴム草履に頼っている。
だから、私にとってゴム草履を履くという行為は、
私が「自分の好きな自分」でいる瞬間であって、
自分らしく生きている実感を得る時間であって、
『自分のためだけの世界』を守るためにも必要な時間なのだと、認識するようになった。
こういう、何でもないような、どうでもいいような、この世界で私だけにしか価値のないような出来事を通して
自分の考えが変わる瞬間というのは、すごくすごく愛しい。
昔からの人付き合いをただ延命しているだけのようなTwitterでつぶやいたところで、誰にも分ってもらえないだろうし、
「溜まっているのが気持ち悪いんだよね~」という理由だけで流し読みされているようなInstagramのストーリーに上げたところで、生存確認ができるくらいだろうし。
そんな瞬間は私だけが抱きしめていればいい。
大切にしたい人ができた。
いや、「できた」というよりも正しくは、「前からいた」し、「さらに強く」、そう思うようになった。
先日、彼女と「狛江珈琲参道」というイベントに行ってきた。
■狛江珈琲参道
https://comaecolor.wixsite.com/coffee-sando
狛江駅のすぐ近くにある龍泉寺というお寺の境内に、珈琲屋さんとサンドウィッチ屋さんやパン屋さんや雑貨屋さんがたくさん出店されて、
緑と風に囲まれながら音楽を奏でている人がいるというイベント。
言ってしまえば小さめのフェスなのだが、
これがあまりにも心地よくて、気持ちよくて、私の周波数に合っている空間なのです。
■昨年の様子
https://youtube.com/shorts/GUwLBKGuFeU?feature=share
ここで、のびのびと深呼吸をしながら、美味しい出会いに頬を膨らませている彼女を見ている時間がすごく大好きで、たくさん写真に収めようと思って一眼レフを構える。
「私も、緑のパンダを撮りたい」
そう言うから、カメラを貸して、電源ボタンとシャッターの場所を教える。
「あ、一応首からかけといて」なんて言いつつ、
どんな写真を撮るのかなと思ってフラフラと一人でいい背景を探していたら、彼女が一言。
「あれ!ピントが合わない!どうやるの!」
「あぁ、私とカメラが近すぎるからAFが合ってないんだよ。これちょっと壊れかけててさ、ごめんごめん。これでいけるんじゃないかな」
そう言って、マニュアルになるように調整してあげていたらシャッター音が聞こえてきた。
「あ!撮れた!……でもボケちゃったな。」
これで生まれたのが、この記事のカバー写真。
この写真が私はすごく好き。
何年もカメラと向き合っているのに、ふとした瞬間に撮った「写ルンです」に勝てない瞬間は山ほどあるのだけど、
まさに、この写真は私じゃ撮れない1枚だった。
じゃあ、私も彼女の笑顔をたくさん撮ろう。
そう思って何枚撮っても、何枚撮っても、今目の前にいる彼女本人の良さを引き出せない。
笑顔が素敵で、輝いている表情をどうして私は上手く撮れないのだろう。
こんなにも、近くにいるのにどうして。
「近くにいるのに」…?
本当に、恋は盲目だなと思うのだけれど、
あんなにカメラのピントが合わない原因を彼女に力説していたのに、
私が上手く撮れない理由は簡単で、彼女の近くにいすぎたのだった。
さっき、自分で言ったばかりじゃん。
そう思うと、今持っている18-300mmのSIGMAのレンズだと、
選択肢が広すぎて、最適な距離を考えている間に彼女は違う表情をしてしまう。
もっと近くで、もっとたくさん、もっと二人の思い出をたくさん残していきたい。
そう思った瞬間、私は単焦点レンズが欲しくなった。
きっと子どもができて、二人を写真に収めたくなったら、望遠をたくさん使うことになると思うのだが、
今、私が撮りたいのは、「私のそばにいて笑っている彼女」なのであって。
そんなことを考えていたら、いつの間にか単焦点レンズが私の手元に。
無意識だ。恐ろしい。写真沼は本当に足を踏み入れてはいけない。
大切にしたいと思える人に出会えて、
大切にしたいと思う瞬間があって。
そんな幸せな時間を、この単焦点レンズでたくさん残していこう。
人間を撮る場面が多い私には、レンズの焦点距離は、被写体との距離感を表していたんだなという気づきを得たのでした。
初めて単焦点レンズを手にした、まだまだカメラ初心者の私ですが、
ちょっとずつ、ゆっくり、私たちふたりの世界を広げていけますように。
誰に見せるでもない、ふたりの世界を、ふたりで抱きしめていこう。
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