「死に目に会いたい」

よく聞く言葉である。
しかし、これはなかなかそうもいかない。
時に神様らしき存在が、最高にうまくリードしてくれることもあるが、たいていはその瞬間まで右往左往するものだ。本人ではない。家族が…。

訪問看護をしていた頃のこと。
Kさんは、すでに余命長くない方だった。独居にはもったいないような立派なお家だったけれど、どこもかしこも何もかもが、硬く冷たく妙に寒いのだ。「階段あがって手前の部屋なんか怖くない?」などと看護師の間でもよく話にあがった。冬服を出すとかしまうとか、風通しなど二階に上がることもあるのだが、主なき本やCD、黄ばんだ昔のカレンダーがそのままだった。

「好きにさせればいいです。縁は切ったと思っているので。お任せしますよ、すみませんけど。もし亡くなったりしたら電話ください。」
やっと繋がった電話の向こうからそっけない返事は、キーパーソンに名前のあった息子さんだ。遠方に住んでいる。
サービス開始のカンファレンスでは、そんな息子さんの返事を受け、管理者や併設の施設スタッフと話し合い、家にいたいというKさんの希望をぎりぎりまで通すことに決めたのだった。

珍しくKさんからオンコールが鳴ったのは、残暑の寝苦しい深夜だった。「風の音がちょっと怖いようだよ。二階がどこか開いてないかね。」気難しくプライドの高いKさんが電話をかけてくることは、それまでになかった。
今までと違うことを言い出したとき、これまでにない登場人物を口に出すようになったとき、何かが起き始めていることが多い。
私は「伺いますね」と言いながらベッドを出て、用意しておいた仕事用のスクラブに着替えた。空賊ドーラの「40秒で支度しな!」に、パズーより先に出られるわといつも思ったものだ。オンコールにはパチリと目が覚め、「今まで仕事してたの?」と言われるほどパキっと電話に出ることができるのだった。
Kさんはガンを患っていた。暑い夏を乗り越えたが、しだいに衰弱が目に見え、転移も考えられた。年齢のこともあり告知はしていない。本人は「何が悪いんだろうね?」と首を傾げるばかり。今から知らせても辛いばかりだろうという管理者の配慮からだった。
丑三つ時の真っ暗な国道を走りながら、「風などない…」と思った。

チャイムを鳴らし合い鍵で入ると、Kさんは布団の中からおいでおいでと手招き。枕元からいつもの不二家チョコレートのルックを出して口に放ると、私にも突き出して食べろと促す。ヤンキーの先輩がタバコを一本勧めるみたいだ。ひとつもらい、ふふふと笑い合う。
「台所の下のさ、このくらいの入れ物にさぁ、緑色の、○○の…」 Kさんが、息子さんの名前をチラリと出した。初めてのことだった。静かに言葉を待ったが、いいやいいやと言うように手をひらひらさせた。「もういい、あっち行け」という時のいつもの仕草。
私はバイタルサインを確認して、眠るのを見届けてからそっと家を辞した。

その数日後、坂を下るようにKさんの状態は悪化した。
「もういつ何があってもというところです」息子さんに電話すると、「わかりました。よろしくお願いします。」と、不愛想に電話は切れた。
しかし、半日が過ぎたとき、息子さんから電話が鳴り、「もうすぐ着くから待ってるように言って何とか動かしといてください!」と悲痛な声が聞こえた。
「何とか動かしといてだそうです」と同僚たちに告げると、管理者は「まったくバカ息子が」と毒づいた。
こういうことは病棟でもまれにある。着くまで生かしておいてくださいと言われ、汗だくで心臓マッサージを続けたという話もある。
Kさんの耳元で、「息子さんが帰ってくるってよ。待っててあげてよ」と声をかける。喘ぐような呼吸で返事はない。

数百キロの道のりをぶっ飛ばして息子さんが帰ってきたとき、Kさんは息絶えていた。ほんの15分ほど前だった。
息子さんは小さな男の子のようにグーに握った拳で、涙をふきふき泣いた。「間に合わなかった」そう繰り返す彼の肩をさすり、「間に合ったんですよ。間に合いました。帰って来てくれたのを、その辺から見てると思いますよ」と言い、Kさんのチョコレートルックを息子さんに差し出した。「Kさん、いつもこれをくれました。食べましょう」息子さんもひとつ、それを口に放った。その仕草はふしぎとお母さんにそっくりだった。そこにいた全員で、Kさん御用達のチョコレートを食べて泣いた。

Kさんの口から息子さんや夫のことが語られたことはなく、ただ、家族というのは仲の良し悪しに関わらず、いろいろあるのが普通だ。
死に目に会うということにこだわる家族は多い。しかし、旅立つ方の精神は少しずつあちら側へと向かい、ここから離れ始めているのだ。重い肉体を置いて旅立つ準備のように見える。
生きてわかるうちに愛や感謝を伝えたほうがよい。何なら「バカヤロー」だっていい。どんなに意地を張っても、いずれみんな跡形もなくなるのだから。


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