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お墓、どうしますか?

今年、北海道の実家では墓じまいをしました。

父が26年前に亡くなり、長いことお墓の住人だったのです。
独身だった父の末弟も去年亡くなり、同じお墓に入れてと伯父から頼まれて実家のお墓に入ったと聞いていました。
その伯父も亡くなり、どんどんみんな進化していく今日この頃。

叔父の骨がまだお墓に馴染むかどうかという頃でしょうか。
母が墓じまいをしました。
高齢なので、自分の目の黒いうちにやり切って、安堵したことでしょう。

あの崩れかけたような古い墓石が私は好きでしたので、もう見ることができないと思うのは正直、少し寂しいです。でもだからと言って、持ち帰って庭に飾る、というものでもないですしね。

いずれにしても、お骨はお寺の永代供養コーナーに入れてもらったとかなんとか。
まあ、ぶっちゃけ、あんまり覚えていません。

私の知人に、奥様のお墓は作らず、庭の木の下に骨壺を置いていた、という方がいました。その方も亡くなり、葬儀の際に奥様の骨も、と、骨壺を開けて見たところ、何もなくなっていたそうです。

骨って、50年くらい経つとなくなっちゃう。子どものころ、おじいちゃんのお葬式に集まった大人たちが話していました。
だからお墓の中が骨でいっぱいにならないんだね、と、いとこたちと理解した記憶があります。

もし骨壺に入れた骨を置いておくだけなら、うちの庭に置けばいいのに。
そんなことを、つい思ってしまうような、お世話になった大好きな方がたくさんいます。でもそれじゃあ、骨の庭になっちゃうね。

そんなわけで、世の中のお墓という概念もそろそろ刷新していったらいいのに。と、私は思います。
山暮らしだから、きっとそんなことを思うのでしょうね。

我が家は、台所で出る生ごみを、庭に穴を掘って土に還しています。
コンポストを設置して、いっぱいになったら別の場所に穴を掘る。
山梨に来てからは、そんな暮らしをずっとしています。

生ごみを、燃えるゴミに出している人はたくさんいますね。
自分ができているかどうかはまた別として、食べ物が土に還るのは、自然なことだと思いませんか。
それと同じに、人間の体も有機物ですから、土に還ることができたら本望なのではないでしょうか。

自然の循環を思ったときに、人だけが、いろいろに抗っていますね。
お墓も、うちの実家のようにもう必要なくなったという人が増えたら、どうなるのでしょうか。

お墓なんて作らなくても、安心して死んでいける方が、ずっとヘルシーなのに。
社会はそうではないのが、不思議です。
これは日本だけなのかな?

ところで、我が家の道反対には、林があります。
猫が帰ってこないときに、探しに林の中へ入ったとき、鹿の屍に出合いました。骨も見えていて、表面の毛もまだ残っていて、なんというのか、屍でした。
それは決して、かわいそうではなく、命が尽きたその後が、ただそこにあるだけ。

ー病気だったのかな
ー自由に生きることを楽しんだかな
ー子どもはいたのかな

いくつかの疑問も湧いたけれど、そこに屍として在ることを誰からも咎められず、その姿こそが命の証だったのだと思いながら、林を後にしました。

人はできたら一人ではないところで抜くタイを脱げるといいけれど、今の時代はそうも言ってられません。
死生観、つい忘れがちですが、いつでも大切な人たちとのお別れが来てもいいよう、感謝の気持ちだけは伝えておきたいです。できていないけど。

そして、私の骨は骨壺(木製でいい)に入れたら、庭の雑木が何本かあるうちの適当なところにおいておけばいい。
ミツバチが入らない巣箱があるから、私が死んで何かの力を得るとしたら、庭が豊かになるような何かをしたい。
だからやっぱり、ここで肉体のカケラは土に、いずれは空に、還っていったら、いいなと思うのです。


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