うちの母親はディエゴソウザに似ている
昨日は、母親との味スタ観戦だった。
年に1回の、恒例行事。
スタジアムに向かう前に、入院している祖母のお見舞いをしてきた。
22年前、僕がサッカーを習い始めたと聞いて、「プロの試合にも行ってきなさいな」と、東京ヴェルディのチケットを用意してくれたのが、祖母だった。
その後も、僕が遊びに行くたびに、今はなき北浜酒店というお店まで、祖母はチケットを買いに行ってくれた。
応援グッズも買ってくれた。サイン会にも連れていってくれた。
ただただ、孫の喜ぶ顔が見たかったんだと思う。
今の祖母は、すっかりボケてしまって、おまけにこの前大ケガまでしてしまって、半分寝たきり状態だ。それでも、お見舞いに行くと「◯◯◯ちゃんに会うと、生きる気力が湧いてくるよ」なんて、僕に言ってくれる。それでずっとおばあちゃんが元気で生きていてくれるなら、僕は毎日だってここに通うのだけれど、たぶん、そうじゃない。
ヴェルディのことだって、祖母はもう覚えていない。「やっとヴェルディがJ1に戻ってきたんだよ、あの頃と同じだねえ」なんて話をしたいのに、もう、できない。
でも、喋り疲れて昼寝をし始めたその顔を見ていると、なにか孫が喜ぶものがそこにあったから、北浜さんに買いに出かけなきゃ、なんて、夢の中で準備をしているのかも、とも思う。
あまり味のしない昼食を済ませてから、母と味スタに向かった。
母はディエゴソウザに顔が似ている。
かなり、似ている。
昔本人にそう言ったら、まんざらでもなさそうな顔をしていた。母は「濃い顔=価値が高い顔」だと信じているので、褒め言葉と捉えたらしい。
母の好みの男性は中澤佑二。なのに、どうみても正反対なタイプの、名波浩みたいな顔をした父と結婚した。世界は不思議なことばかりだ。
「あんたも私に似たらぱっちり二重だったのに、父に似て残念ねえ」と母からよく言われるが、僕はそこまで濃い顔になりたくなかったので、どちらかといえば名波でよかった。いや、別に名波も嬉しくはない。願わくば、竹内涼真がよかった。
昨日は、久々にバックスタンドで試合を観た。
かつては、ガラガラだったゴール裏の、中心部から離れたメイン寄りの位置で、母と試合を観ていた。
思春期の頃は、なんだか恥ずかしくて、母を置いて一人別の場所で、跳ねて歌ったりしていた。
母にとって、味スタは昨年10月の千葉戦以来。
あの日にもましてぎゅうぎゅうになったホームゴール裏の光景を見て「本当にサポーターが増えたねえ」と、もともとデカい目をさらにまん丸にしていた。
湘南ベルマーレは、強かった。
「こういう苦しい展開のときこそ、カジくんを出すべきじゃないの」「なんど言えばわかるんだ、カジくんはもうヴェルディにいないんだよ」などと、試合を観ながら喋っていた。人間、60歳を過ぎると物忘れがひどくて、困る。
試合は、0-2の完敗だった。
でも、立ちはだかった相手があの上福元なら、まだ諦めがつくかなあ、彼はやっぱりいいキーパーだね、なんて、ふたりで力なく笑いながら、帰路についた。
小田急線大和駅で、母に「またね」と告げる。
去り際に、改めて母の顔をまじまじと見てみると、そんなにディエゴソウザに似てないなということに気づく。
シワも増えた。髪も薄くなった。心なしか、背も縮んだ気もする。
年に1回の、恒例行事。
あと何回、僕はこうして母とスタジアムに来られるだろう。
「スポーツチームが存在する意義」なんて難しい話は、僕にはわからない。
けれど、僕にとっては、小さな頃から今に至るまでの大切な思い出が、このスタジアムに詰まっているし、
ここに来れば、サッカー少年だったあの頃と同じように、胸が高鳴る。
昔と同じように、他愛もない話をしながら、母と感情を共有できる場所でもある。
それだけだ。それで十分だ。
苦難のときは数あれど、東京ヴェルディは、31年間、プロクラブとして生き続けてきた。
たくさんの人間の想いを背負って、たくさんの人間たちに引っ張られて、車輪をぎしぎしと軋ませながら、それでも前に進み続けてきた。
その歩みを止めないでほしい。緑の灯が、未来永劫輝き続けていてほしい。
僕らのアイデンティティであり続けてほしい。僕らのアルバムであり続けてほしい。僕にとっての、大切な居場所であり続けてほしい。
もしそのきらめきが消えてしまったら、家族との大切な思い出ごと、灰になってしまうような気がして、ふと、そんなことを記したくなる。
昨日は負けてしまったけど、とはいえ総じて幸せな今シーズンにおいて、でも心のどこかに、漠然とした不安は残っている。
だから、どこかにその気持ちを吐露したくて、記す。
これからもずっと、僕はヴェルディとともに、生きていたいのです。
祖母が与えてくれて、母の隣でのめり込んでいった、このかけがえのない存在を、僕はいつまでも応援していきたいのです。
たとえ、僕の周りのなにもかもが変わっていってしまったとしても、僕はヴェルディを好きなままでいたいのです。
時は移ろい、人は老いていく。
いつか僕らは、たとえどんなに望んでも、この場所に足を運べなくなる。
でも、そんな日が来ようとも、スタジアムに鳴り響く歌声は、決して止まないでほしい。
別の誰かによって、未来へと受け継がれてほしい。
その誰かに、伝えたい。忘れないでほしい。
そこに響く叫びは、そこにいる者たちだけのものではないのだ、と
少しセンチメンタルな気分になった日に、そんなことを願う。
あ、でもFaceappでいじってみたら、やっぱりうちの母ディエゴに似てたわ
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