真のオリジナリティは青い鳥〜創作の真実の原石が転がる海岸のようなnote

創作の真実の原石が転がる海岸のようなnoteを発見したのです。
シナリオライターの方のnoteです。
創作に関して心から頷ける、珠玉と表現したい感じのnoteがたくさんあります。
まだ全部は読めていないので、徐々に読み進めていくつもりです。

最初に見つけて得心がいったnoteがこちらです。

書き出しから首振り人形のように高速でウンウン頷いてしまいました。
その書き出しだけ引用してみます。

 斬新なアイデアが思いつかない。オリジナリティを求められ四苦八苦する。誰も考えつかないような発想を出してみたい。そういう時、それが「1つのもの」であると考えてしまうところからが、つまづきの始まりである。
 斬新さやオリジナリティというのは、そういうものとしてあるものではない。それは結果であり、あるアイデアなり発想なりがそうであった時にそう呼ばれるというものだ。だから最初からそれを目指すことはできない。重要なのは、それがいかに奇抜化ということではなくて、どのように奇抜化という中身の問題であるから。

オリジナリティがほしい時、探してはならない

いやー本当この通りだよねえ…。
「オリジナリティ」っていう抽象化された概念から、具象の「オリジナルなモノ」を導き出すことはできない。
「オリジナリティ」という概念を敷衍させて「オリジナルなモノ」を探すのではなく、自分の心(脳内イメージ)に沿ったものを書いて(描いて)いったら帰納的に「オリジナリティ」と呼ばれることになる、という結果論だよねえ。
私も常々そう思ってるし、かねがねこのnoteでもそう言及している。

前にnoteでこんなことを書いた。

描き手の「脳内イメージ」を育てるのもまた好みや経験値、アンテナの感度であると思う。
何を好んで何を摂取して何を選択して何を感じて溜め込んで来たか、という個人の感情の来歴が「脳内イメージ」と言えるのかもしれない。

絵で「刺さる」真に迫る感情や表情を描く方法〜「脳内イメージ」を育てる

↑だけでなく他のnoteでも書いているが「脳内イメージ」だけは他人と被ることはあり得ない。
「何を好んで何を摂取して何を選択して何を感じて溜め込んで来たか、という個人の感情の来歴」が「脳内イメージ」の正体と考えられるからだ(一応現時点では)

奇抜なアイデアを出す競争が「オリジナリティ」ではない。
その描き手の体験はその描き手だけのものである。
だからその描き手の体験から得られた様々な感慨、消化しきれない感情などを描くことが大事だと思う。
そこに少しの客観性と誤魔化しのない率直さがあれば読み手にもそのまま率直に伝わると思うのだ。

奇を衒ったり自分は他人とは違うのだ!オリジナルなんだ!と殊更叫ばずとも自分の内面と忌憚なく向き合えば自ずとオリジナルになると思うのだ。
そもそもみんな一人一人違っていて同じ人生を歩むことはあり得ないのだから。

つまりオリジナリティとは外に向かって探すものではなく、己の内面にあるもの、メーテルリンクの青い鳥のようなものだと思うのだ。

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