この通り過ぎて泣いた

つまり、原作が存在する以上、脚本家は職業脚本家として振る舞う以外選択肢がない。
そこに脚本家の作家性や、独自に導き出した答えなんてものは必要ない。
そんなもの誰も求めちゃいないし、お前誰だよって言われるだけだ。
他人の褌で相撲と取るってときに、何自分のものみたいな顔してんの。あなたの履いている褌は借り物ですよ、と。
そもそも脚本を依頼してくるのは身内(プロデューサー)であって、原作者ですらない。
褌を貸すとは言ったが、好きにしていいとは言っていない。それなのに勝手に切ったり縫ったり染めたりしたら、貸した人が怒るのは当然だ。

「セクシー田中さん」の原作クラッシュ問題をデザイナー目線で考えてみた

二次創作ヲタの方がずっと弁えてるよ…。


そして、こちらのnoteの方の上司の方が暴露したTV局の本音がもう…胸糞悪くなるので引用もしたくない。

ただ、前に書いたnoteで私も似たようなことを指摘したことがある。

「私が作った作品」

「この作品を作ったのは私よ!」
では意味合いが異なると思うのだ。
それぞれの主体は最後の名詞にかかっていると思う。
前者は「作品そのもの」。
後者は「作品を作った『私』」だ。

クリエイターという称号への陶酔は横に置く〜創作を巡る刺さるnote

TV局は後者なんだな…知ってたけど。

ショックでなかなかこの言葉書けなかったけど…
芦原妃名子先生のご冥福をお祈りいたします。



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