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「セクシー田中さん」の原作クラッシュ問題をデザイナー目線で考えてみた

ドラマ「セクシー田中さん」の脚本問題で、原作者である芦原妃名子先生が声を上げた件。

ドラマも漫画も未読な外野である私(職業デザイナー)が、自戒も込めて考えたことを書いてみたいと思います。


前提

とりあえず私のスペックを!

  • 版権元からコンテンツを借りてグッズを作る仕事をしているデザイナー
    (少し前まででミュージシャンの専属デザイナー兼スタッフも同時並行でやっていた)

  • 「セクシー田中さん」はドラマ・原作漫画ともに未読です。すみません。

今回の件を知った経緯

今回原作の芦原先生が声を上げるに至った経緯については、芦原先生のXのポストを見て知りました。脚本家の相沢友子さんのインスタの投稿も見て、それ以外は芦原先生のポストについた反応しか見てないため、詳しいわけではないです。

ただ、お二方の発言や周囲の投稿を見て、なんとなーく人間性を察しつつ、周りの情報を拾って思ったことです。裏の真実とかは全く知らない一般人ですので、そのつもりでご覧ください。よろしくお願いします…!

では、本題いきます!!


原作クラッシャー

原作がある作品のでこの言葉をよく耳にする。
その度に「作品への愛がない」という言葉がセットになって流れてきて、キャスティングの都合で年齢や性別が変えられたり、下手したら2人が1人に合流してたり、逆にオリジナルのキャラがいたり。ストーリーで言うと、大事なエピソードが削られたり、存在しないエピソードが出されたりもしていて、原作ファンの愚痴や、ひどい時には原作者からの発信で、それが他界隈にまで知れ渡るほど話題になる。要するに炎上だ。

なんのためにそんなことをするのか。
毎度毎度、原作ファンに叩かれたり、思ったような利益を上げられない原因になるのに。

この話を以前、テレビ局関係に詳しい上司と話していた時、「あいつら(テレビ局側の人達)は、『俺の作品』だと思ってるから」と言われて、納得した。
プロデューサーにとっては、“俺が”キャスティングした作品だし
監督にとっては、“俺が”撮った作品、
脚本家にとっては、“俺が”面白くしてやった作品になる。
原作は、材料くらいにしか思ってないし、使ってやったと思っている。
そりゃあ原作クラッシュするはずだ。
なんならクラッシュしないと、存在価値をアピールできないまである。

原作にマッチすることで得られる快感

話は飛んで、私の仕事の話。

私の仕事は、アニメやらゲームやらアーティストや配信者やら、とにかく版元から原作の元素材を借りて、それにデザインを加えて商品を作り売ることだ。
イメージ的には、アニメイトとかにあるグッズみたいな感じ。真ん中にキャラクターやアーティストがいて、その周りに色々つけてデザインする的な。

そういう仕事は、原作ありの脚本にすごく似た立場になる。
原作ありきで、それをより引き立てることが主な仕事。
そのキャラクターやアーティストをよりよく見せる。それが与えられた使命だ。

そこにデザイナーの自我は要らない。
むしろ邪魔になる。
どれだけ原作の世界観にマッチしたものを作れるかこそが重要で
原作者や運営にデザイン最高でした!と言われたり、ファンが公式のデザインと勘違いした時、私はこの戦いに勝利する。
(よかったら「◯◯の××で出てるグッズ買った!まじで可愛い♡」とかSNSに書いてね♡さらに頑張れます)

この意識の差は、おそらく原作に初めて触れるタイミングですでにかなりの違いが出ていると思う。
この原作の本筋は何なのか、愛される理由やどうやってキャラクターを魅力的に見せているかなどを受け取ろうとする私達と違って
この作品に、持っている手駒からどうやってキャスティングするか、脚本家である自分の魅力、自分らしさをどうやって織り込むかなどという余計な視点を持ち込む。
自分という存在を作品を通してアピールして、歴史に名を残すために。
でもそんなもの本人以外誰も求めてやしない。
そんなテコ入れが必要なら、その原作は人気になんてなっていない。
原作をつまらなく思うなら、それは思い上がりか作品選びが間違っているんだと思う。

誰のために作っているのか

私はアーティストのスタッフをやっている時も、版元の作品を借りて作っている時も、どんな時でもアーティスト・原作者(運営)とファンのために作っている。
自分の名前が出る出ないに関わらず、デザインを受け取る側が喜ばないものは作っても意味がない。
自分のための作品は趣味なり、自分のアーティスト活動でやればいいと思う。

この意識の差を端的に表した言葉で、「デザイナーはアーティストじゃない」という言葉がある。
これは別に著名な人の名言とかじゃなくて、私が通っていた専門学校の先生が入学当初に教えてくれたことで、私のこれまでのデザイナー人生に大きな影響を与え、今でも大切な指標になっているし、似たようなことはデザイナー業界では言葉を変えてよく言われている。

ここでちょっと注釈を……
デザイナーではない人にとって、デザイナーのイメージって、佐藤可士和さんとか森本千絵さんとかみたいな名の知れた方々を指すと思う。
けれど、ここでは彼らのような作家性の強い有名デザイナーさんは、半分アーティストのようなものなので分けて考えたい。
一括りにデザイナーと呼ばれてはいるが、必要とするスキルや考え方、立ち位置が結構違うと思うので。
ややこしい業界ですみません(笑)
※私のような作家性を必要としないデザイナーを私は「職業デザイナー」と呼んでいます。

そうなると、今回の脚本家である相沢友子さんは、数々の作品に携わった、いわば佐藤可士和さん的な有名脚本家なんだから、お前とは違うだろうという意見も出てくると思う。
実際佐藤可士和さんが知名度をさらに上げたのはSMAPのジャケットデザインだった(と思う……私はそれで知った)。
しかし、ジャケットのデザインというのは、SMAPの曲やSMAPのアイドル性に全くもって関与しない。
めちゃくちゃお門違いなデザインならまだしも、そもそもデザインは、商品(ここではSMAPやアルバムの曲たち)をより良く見せるための飾りに過ぎないので、例えば国民的アイドルグループにグロテスクな血みどろデザインを当てるとかそういう意味不明なことさえしなければ、それほど影響を与えることはない。(そもそもそんなの採用されないし)
そのため、ファンが落胆することはそうそうないのです。
実際、ジャケ買いはあったとしても、ジャケットのデザインが気に食わないから推しのCDを買わなかった、なんて聞いたことがない。

しかし、脚本というのは、作品そのものにめちゃくちゃ関与してくる。
音楽で言う歌詞くらい重要で、デザインの距離感とは全然違う。
作品への影響が強いほど、外しちゃいけないのは言わずもがなだ。

つまり、原作が存在する以上、脚本家は職業脚本家として振る舞う以外選択肢がない。
そこに脚本家の作家性や、独自に導き出した答えなんてものは必要ない。
そんなもの誰も求めちゃいないし、お前誰だよって言われるだけだ。
他人の褌で相撲と取るってときに、何自分のものみたいな顔してんの。あなたの履いている褌は借り物ですよ、と。
そもそも脚本を依頼してくるのは身内(プロデューサー)であって、原作者ですらない。
褌を貸すとは言ったが、好きにしていいとは言っていない。それなのに勝手に切ったり縫ったり染めたりしたら、貸した人が怒るのは当然だ。

テレビ時代の終焉

テレビが力を失ったと言われて久しい中、テレビの中の人は今でも「テレビ様だぞ」的な対応をすることがよくある。

最近バズってたポストでこういうのもあった。

取材される飲食店より、自分たち(テレビ)が優位にある。
取材させてもらってるじゃなくて、映してやってると思ってるから、こういう企画を実行できるんだと思う。
一般的な価値観を持っていたら、これお店に失礼じゃない?って気づく。

もう世間はそこまでテレビを求めていない。
テレビの中の人にも、力なんてない。
なのに、いつまでも昔のままでいるからこんなことをしてしまうんだろう。

原作漫画は、彼らの仕事の材料ではないし、
実写化を有り難がる作家もかなり減ってきていると思う。
実写化で原作を改悪される苦痛を我慢してまで得たいと思えるような影響力がもうテレビにはないからだ。
そうなったらもう、この作品を生み出した原作者と、それを借りてドラマをつくるテレビの人達の力関係なんて明白で
もちろん原作者の方が上に決まっている。

原作の実写化とオリジナル作品

じゃあ、自我を出したいプロデューサーや脚本家はどうしたらいいのか。
それは、オリジナルドラマを作るしかない。
オリジナル作品では、彼らが原作者なんだから、他人の褌じゃない。自分の褌だ。
まさしくアーティスト本人になれる。

実写化でのアーティストは原作者
オリジナル作品でのアーティストは監督や脚本家
キャスティングだってプロデューサーの好きにすればいいと思う。
だって、それが始まりの物語で
それこそが正解だから。

すでに正解が提示されている原作もので、裏方に徹することができないなら、それは余りにも稚拙だと思う。
ビジネスマンとして、クリエイターとして未成熟だ。
いや、業界のウイルスに感染して腐ってしまったのかもしれないけど。
とにかく、どれだけ局内や業界で立場が偉かろうが、過去に大金が動いた有名作品に携わっていようが、そこを使い分けてこそプロの仕事だし、それができれば誰が見てもかっこいい。
「俺様の仕事」なんてのは本来持つべきクリエイターのプライドじゃない。
周りから尊敬されないから自分で主張するしかないなんて、滑稽だ。ダサすぎる。

自由にやりたいなら、自分で作らなきゃ。
0→1を創った人だけがその作品を自由にする権利を持っている。
借り物じゃ持ち主にはなれないんだから。
そんなのものづくりをしているならわかっていたはずだ。
なのに驕りがそれを忘れさせてしまう。
それはなんて格好悪い姿だろう。

最後に自戒

個人的には、上記のような考え方と仕事内容なので、自我を出すことはまずないけれど、
今回の件を見ていて、原作者や運営に認められ、ファンに愛されるデザインを今後も極めていきたいと改めて思った。

私の仕事は、ファンのためにある。
ファンが喜んで買ってくれてこそ作る意味があるし、ファンが愛しているのは原作であり、アーティスト本人。けして私や私が作ったものではない。
私はそれに誇りを持っているし、ファンが喜ぶ顔を見てまたやる気が出る。

これからも沢山の作品に関わって、沢山のファンを喜ばせる仕事がしたい。


これまでうちの商品を買ってくれたみんな!
そして、今後出会う人も!
これからも期待しててくれよな!!!
絶対にがっかりなんてさせないから!!

そんなわけで言いたいことは以上です。
数日前、デザインが運営さんとファンに好評で、他案件もお願いしたいと言ってもらえた、浮かれデザイナーの思考記録でした✌️


芦原先生に幸あれ……!!!!




追記(2024.1.29)

本日夕方に、芦原先生がこの世を去ったとの訃報をニュースで拝見いたしました。
芦原先生のご冥福をお祈りするとともに、今後原作者の想いを汲んで作品に関わるクリエイター(プロデューサーも監督も脚本家も…作品に関わる全ての人)だけがこの仕事に関わることができる世の中になればいいなと願います。

原作者はその作品をこの世に生み出した本人です。原作者がいなければ、キャラクターも描かれた世界も何もかもこの世には存在しないもの。
実写化は、その創造物の二次利用でしかないということを、しっかりと心に留めて仕事をしてくれたらと思います。

芦原先生が悔しい思いを抱えたまま、もう二度と「セクシー田中さん」の続きを描くことができないのは残念でなりませんが、
天国では今まで以上に自由な創作活動ができるよう、願っております。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。



追記2(同日)

脚本家さんの人格を否定するポストが散見されています。心ない言葉が多すぎる。
そんなことをしても、芦原先生は帰ってこない。これ以上苦しむ人を増やしてはいけないと思います。

今後誰かが責任を取ることになるかもしれませんが、責任の所在がわかったとしても、外野である私達が責めてはいけないと思います。
ましてや一片しか知らないのに人格を否定したり、誰のせいだなんて言うことはすべきではないと思います。

間違っていたのは仕事の仕方であって、人間そのものではない。罪を憎んで人を憎まず、です。

今後の実写化がピュアなクリエイティブのもと行われることを祈っています。

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