プロ絵師さんの言う「人間愛」とは一体何なのか
前回、プロのイラストレーターさんが私のスタンスとかなりのシンクロ具合という激レア案件だった話を書いた。
私がお絵描きの心理的防衛ラインを堅固にした方法〜スタンスが近いプロ絵師さんが激レアな話
その元のプロのイラストレーターさんのインタビューはこちら
そんで尺や文字数の都合もあったのだと思うけど、そのイラストレーターさんのおっしゃる
「絵の魅力には人間愛が必要」
とは、どういうことなのか、一見わかりづらいのではないかと思ったので、考えてみた。
それで今回ちょっと思ったのは、「人間愛」とは「人間に対する興味」なのではないかということである。
人間愛だとスケールデカすぎてピンと来ない。
しかし人間に興味を持つ、だともう一段具体的になってくるような気がしないだろうか。
ちなみに題材が違うけど夢や目標は抽象で留めないで具象化しようぜって内容を過去noteでも書いたことがある。
↓以下
要はぼやっとした抽象的な目標は、抽象的で遠いままではただの妄想に過ぎず実現可能性が低いので、そんなお題目唱えてないで現実的具体的な手段に段階的に落とし込んでってステップごとに実現しようぜ、って話。
んで今回は「人間愛」もデカすぎだからもう少しステップごとに分けた方がいいよね?と思ったわけ。
究極の結論としては大いに賛成するけど、あまりに抽象的なので。
じゃあ抽象じゃない具体的な話ってどんなん?
というと、とりあえず私の話をすると、子供の頃から人間不信でごく限られた人間しか信用していなかった。
現実の人間が嫌いなので(家で飼っていた)猫大好きだった。
現実の人間が嫌いなので普通に育ったら自分の経験で学ぶはずのさまざまな良い感情を猫から学んだ。
(↓参考)
現実の人間が嫌いなので二次元が好きになった。
小説も大好きで漫画も大好きだったが漫画はなかなか買ってもらえず(それ以前に貧乏すぎた)、家にあった母の古い蔵書を主に読んでいた。
最初に読んだのは確かウェルズの「透明人間」の文庫本だった。
多分小学校中学年くらい。
次もこれまた文庫本のパール・バックの「大地」だったと記憶している。
(文庫本ばっかりなのはもちろん貧乏だからである)
パール・バックの「大地」は生まれて初めて大好きになって繰り返し読んだ本であった。
という感じで最初からリアル人間嫌い、猫や二次元が逃避先という子供時代であったので、そりゃ絵や文を好きになるよね。
で、そのまま人間不信の状態で大人になった。
でも、長じたある日(就職して何年も経ってから)ストンと思ったのよ。
あれ、人間そんなに悪くないのでは?
たまにとんでもない悪いのがいるけど。
とんでもない悪いのを見分けられるようになればあとは割と安心して暮らせるんじゃね?
って。
それまでは知らない人が近寄ってきたら自動的に体が警戒モードになってこわばってたんだけど、それ以降はだらっとしたままでもいられるようになった。
あとそれまで自分のメンタルヘルスのために心理学の本などさまざま読んできたけど、それらも活かしていろんな人々を観察するようになったよね。
その前は自己分析と直接関わった嫌な人、遠くの気になる人(殺人事件の加害者被害者:後述する)しか分析してこなかった。
で、あんまり今まで意識してなかったんだけど、結果としてはストンと腑に落ちる以前(以降ストン前)と以降(以降ストン後)ではたぶん絵も変わったということになるのだろうと思う。
ただ、その変化は一気に来たものではない。
それまでリアル人間から目を逸らしていたので、そこからの人間観察スタートになったわけで、ものすごい出遅れ組なわけである。
(とはいえひところ流行った「趣味:人間観察」とかいう意識高い系の人々は鼻持ちならんかったなーと思うけど)
人間の考え方、感情の流れ、環境の及ぼす範囲、さまざまなものを勉強しなくては、「ナマの人間の感情」は描けない。
また勉強しなくてはならないほどにそれまで私はリアル人間に興味がなさすぎた。
とはいえリアル人間をなんでも肯定しているわけではない。
今までのnoteでも書き連ねてきたような小物ムーブをそうと気づかずするような人々にはそれ相応の評価をするし、尊敬できない姿勢の人々というものはどうしたって存在する。
ただ、それでも「人類滅ぶべし!」みたいな「真実に目覚めたばかりのつもりの厨二病罹患者」みたいな感じではなくなった。
これがストン前とストン後の違いである。
あるいはこれが先のイラストレーターさんのいうところの「人間愛」なのかなと推測している。
という話。
そういえば余談ながら、ストン前は主に殺人事件の加害者被害者の心境の推測をよくしていた(今でも気にはなるけど)
気になるのは「なぜ殺人という究極の感情の暴発の末の行為が引き起こされたのか」という心理的な経緯と決定的な動機であった。
可能な限りの周辺情報と関係者のパーソナリティの参考になる情報を拾い集めて心理的な経緯を推測するのだ。
そういう試みの中で、何が決定的なスイッチになったのか、鮮やかな臨場感込みでその情景が見える場合もある。
とはいえ、こういった推測はあくまで想像でしかないので答え合わせは永遠にないのだけれども。
でストン後に殺人事件ではなく毒親関係で情報を拾い集めて心理的な経緯を推測した末におそらくファイナルアンサーの答え合わせまで辿り着いた例を過去のnoteに書いたこともある。
↓以下がそれ。
でもこういうのもキャラクター造形練るのにすごく役には立ってる。
自分とかけ離れた理解し難いキャラクターの言動の裏付けをかなり重ねて練ることに酷似してるので。
ストーリーを作るとどうしたって対立するキャラが必要になるし。
対立するキャラは一見理解不能である方が対立構造を明確にできるし。
そして一見理解不能な行動様式に一本の筋を通して読者にもその行動原理の一端でも理解できるように作ることができれば最上である。
まあ、とてもとてもとても難しいことではあるけど。
でもそこまでするとキャラクターが自律して動き出すので、ストーリーも作りやすくなる、と思う(ストーリー作るのは主に相方なので推測。私はキャラの内面を掘って掘って掘りまくるここ掘れワンワンみたいなもの)
ストーリーが作れない話はこちら↓
脱線してしまった。
結局なんの話をしているのかというと、
人間嫌い(興味ない)のままでリアル人間から逃避するために絵を描き続けても、
結局絵を見るのはリアル人間なので、
リアル人間を拒否してる人の絵にはリアルの人々は魅力を感じないのでは?
という話である。
それが先のイラストレーターさんの言うところの「人間愛」なのかなと。
まあ、言うて私の絵がストン前ストン後で違うのかと言われたらそれはまったく不明なんだけど。
ストン前だろうが後だろうが変わらず他人からあまり反応を貰えないほどの木っ端絵師にすぎないのは変わりないし。
ただしストン後は絵を公開するたびに底辺雑魚モブ絵師から絵のストーキングに遭うようになって、時に絵だけでは飽き足らなかったのかリアルのストーキングにも遭ったけどね。
ストン後の他人の反応ってものすごく変で、田舎の地元では一瞬ザワ…ザワ…としたあと一切無音になって、エンガチョされて半径2m以内には絶対近寄らないぞという人々の強い意志を感じるほどの空白ゾーンと化してたよね、私と相方のリアル同人活動時って。
すごい変な絵面だったなあ。
リアルで私たちのブースに半円形に人のいない真空地帯ができてたんだもん。
その上ストーキングに遭って病んでリアルでは活動しなくなったんだけど。
それがあるから今でもリアルでは活動してない。
この辺のことは以下noteに詳述↓
といってもネットはネットでこっそり見ないふりのストーキングされるけどね、特に二次創作の狭い界隈だと。
ただ、ストン前よりストン後の方が描くのは楽しい。
ストン前より描けるもの(接触しても構わないもの)が増えたから。
リアル人間に接触したくない、嫌い、二次元にしか興味ない、という状態での私の絵は間違いなく貧相そのものであったと思う。
それと、ストン前とストン後の描き方の違いというと、狙って描くか自動筆記(何も決めないで描く)かの違いでもあると思う。
とはいえストンと来た直後に自動筆記するようになったわけではなく、しばらく悪あがきした挙句諦めた、という形ではあるが。
ただ、ストンがなかったら自動筆記まで辿り着けたかというとそれも謎だと思う。
でストン前〜ストン後しばらくの描き方は、(不得意にも関わらず)何かを目指す(狙う)描き方だった。
それしか描く方法を知らなかったということもある。
世間の絵師さんは皆そうして描いているように見えたし、それ以外の世間の要請もないように見えた。
でも心底何かを狙って描くことが苦手なことが身に染みたので、途中で自動筆記に鞍替えした。
逆に言えば狙って描くほどのあざとさ、延いては賢さを私は持っていないということなのだと思う。
向いてないことを自らに強いるほどメンタル的に不健康なことはない。
なので、いくら狙って描くことが絵師のスタンダードであろうと世間がそれを要請していようと、自分のメンタルヘルスのためにそうしないことにしたのだった。
万単位で世間に絵師が溢れているのだから、1人くらい私のような外れ者がいても別に許されると思うのだ。
というわけで、人間嫌いからちょっと脱して、それから描けるものが多少なりとも増えた。
さらにそこから世間のやり方に無理に合わせず自分のやり方で描くようになった。
という一個人の経験でしかないが、一応これも件のプロのイラストレーターさんのおっしゃるところの「人間愛」に含めても構わないのではないか、と思った話。
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