遠野物語拾遺みたいな感じで(嘘です)
別なnoteの下書き中の調べ物の検索で引っかかったページに、「クセェ文章、スケベ心?」シリーズと似た内容を含んだ記事を見つけましたのです。
全編通して同意できる内容で、それやそれそれ、と膝を打ちつつ読みました。
特に「クセェスケベ心」シリーズと同じ趣旨だったところを引用します。
思わず「デスヨネー」って言いたくなりましたよ。
あとこちらも。
ほーらね、「クセェスケベ心」シリーズが私の独りよがりの見解じゃないでしょって思いました。
誰もが認めるよほどの手練れの作家でもない限り、読者的には好き嫌いとか相性なんですよ。
だからいくら作者が気張って「上手くなる!上手くなる!」(そもそもどういった基準で?)て念じたところで読者の好みに合わなかったらそれでおしまいなんですよね。
かと言って「共感してほしい」って読者に阿ってもそれも読者には伝わるもんだし、あまりカッコつけに腐心してもいいことないと思うんですよ。
書きたいことがあれば、それを書く。
気取ったものより素直に書かれたものの方が一般的には読みやすいですね。読者としては。
…と書いていたらこの記事の方、他の記事でも私と同じこと言ってました。
そういや自分の小説の後書きで自分の小説に「これは面白い」って太鼓判押してたのを初めて見たの、夢枕獏の気がする。
遠い昔すぎてうろ覚えだけど。
「上弦の月を食べる獅子」は好きだったわ。
宮沢賢治の話。(こっちは自分で太鼓判押してなかった気がする)
あ、脱線した。
ええと他にも、最初に紹介した記事の続編が秀逸にも程がありました…。
え、これ、絵師における「ダメ脳内補正」そのものじゃないですかーヤダー。
ダメ脳内補正についてはこちら
↑の原典
絵を巡る考察プレビュー版
さらに秀逸なのがこちらの指摘。↓
ほらほらほらあ、だから言ったでしょー。
この通り過ぎでしょ。
「クセェスケベ心」シリーズ書くきっかけになった作家志望の方、
って言ってましたけど、これ、読みやすい文体を下に見てません?
勿論私もツッコミましたよ。
って。
文書きの相方も言ってたけど、「水を飲むようにするする入ってくるような、文章の巧拙も、文章であることすら感じさせないくらい自己主張を抑えた文章が一番上手い」。
「文章であることを感じさせない」ということは、つまり読者に「文章」という媒体を通しているという感覚もなくなるほどに「作者の脳内イメージをダイレクトに読者に届けることができている」ということです。
「ナマの鮮烈なイメージを読者の脳内に直に感じさせるという最終兵器」の前には文章の巧拙など、取るに足らぬ、吹けば飛ぶような存在と私は考えます。
ともあれ、今回引用させていただいた方の記事はよくあるなろう系のハウツーなどよりよほどタメになることがたくさん書いてあると私は思います。
ピンポイントでいくつか読みましたけど、実に炯眼と思います。
最新記事も非常にタメになる。
私も同じこと書いてましたわ。
結局、作品作るなら読者視点もある方が受け入れられやすいのは理の当然です。
もしくは、逆に一切自分以外の需要とか考えず己の創作衝動の赴くまま突き抜けるかどちらかです。
ヘンリー・ダーガーのように。
でも、今の生活水準の高い日本で、ヘンリー・ダーガーみたいな暮らしに甘んじて創作に励める日本人て、いない気がするわ。
本編はこちら↓