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詩を書くといいながら
要は偏屈なだけなのだ。
ポロっと友人に話したのは「わたしはどうもできない」という事。
例えば月を見て何か思う事を詩にしてみようかとする。
「いや、まて。前に月を見て感じた事を詩にしたよな。なら、書かなくていい」になるのだ。
同じモチーフ、似たような気持ち、似た情景。みな、前に書いたから無くていいになるのだ。勿論必ずとは言い過ぎで、二度三度書いた事はある。但しその場合は「主体」にはなって無い場合が殆どなのだ。
詩にはしてないけど散文で書いただの短歌にしただの、俳句で詠んだだのそんな事すらあるから笑える。
俳句はわかりやすく季語という存在がある。
「この季語去年使ったよ」
結局は使いながらも、何度もそう思いながらを繰り返す。
収束型と解放型があるから。
友人はそう言った。わたしは収束型に違いない。
そして短い一遍に、言葉として表していない多くを背負わせているのも事実。
だから数を多く書く事ができないのだ。推敲を繰り返し「もうこれで充分」と、勝手に納得をしてしまう。
いや、どう理由付けをしようと、結局わたしは単に偏屈なのだと納得する今日この頃。
雲が流れている。だんだんと受ける光が強くなり、白の濃い夏雲が数々の思い出を呼び起こしにかかるだろう。
ラムネ瓶、水ヨーヨー、ラジオ体操
夏が来る。
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