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空高く生まれ土深く潜る


この冬神話部は三周年を迎えた。このタイミングで神話全体について思う事を少し書いてみたい。

想像するしか無い事を前提とした上で、世界各地の神話についてかねてより感じていた事がある。
全体的な話としてより古く、オリジナルに近くなればなるほど、神話は心のありようや心の作用といった領域については、さほど深入りしていなかったのでは無いか?という印象をわたしは持っているのだ。

後に出てくる、確固とした教説を持つ宗教との違いを感じる。
より古い時代であるが故の、社会に溶け込む人智の成熟度が違うのだから当然だとも言える。
一皿の食事を分け合う行為がもたらす充足感は、一皿の食事を手にするための作物の収穫や、狩の成果といった事象そのものが重視される、シンプルな思考の先に存在するとも言えるのではないだろうか。
闘いの虚しさが、支配領域を広げようと奔走した後にやって来るように。

神話は他地域思想との融合を許しながら、原始信仰に沿った、様々に語り継がれた物語の集合体という認識で、大きく間違ってはいないだろう。
その物語のひとつひとつが文字によって残されたり、口伝(歌も含む)や絵(壁画)等によってバラバラに伝わった場合もある。
そこに倫理性を伴う心的領域への介入を始めとした、様々な解釈を付けてきたのが、時代ごとに生きる生身の人々なのではないか。
『欲望と戒め』『破壊と調和』

つまりあくまでも神話の主体は神では無く、時代ごとの人間社会と、そこに生きる人々そのものなのだと思えてならないのだ。
それは良くも悪くも、である。
(だんだん何を言ってるのかわからなくなってきたけど続けるw)

神話が担保した社会的気質は、恐らくそこに直接的な旧来の神話ストーリーを置かずとも、昔話に代表される、形を変えた説話を生み出しながら時代を押し進めてきたのだろう。

矛盾や理論破綻が顕在化しても、時に抗い時に折り合いをつけながら、現代に至るまで神話は根深く、密やかに息づいているのではないだろうか。

日本に限った一例をあげてみる。
わたし達は食事を前にして「いただきます」と唱え、終われば「ご馳走様」と頭を垂れる。
これは神話を基礎とした神道の、簡素な儀礼的行為に他ならない。
当初は収穫を左右する自然への畏怖の念から始まったであろう行為が、時代を経て食する事への感謝の意味合いを持ち、やがて道徳心を付与するに至ったと言ったら果たして大袈裟だろうか。

定住化を果たし、畏怖、すなわち呪術的原始信仰を生み出した、一万年とも言われる縄文の時間の長さを甘く見る事はできない。今知られている神話と直接的に結び付く、稲作が始まった時から考えても、日本列島は三千年と言う時間を重ねているのだ。
島国であれば、その継承力は強固なはずだ。
大きく民族構成が変わらない限り、その土地と社会が生み育てた神話からは大して逃げられ無いのだと感じている。よく言われる「何故日本人は」「何故日本の社会は」の「何故」は大概この辺りに理由があるとわたしは思っている。

(このえらそうなものいい。すべてこじんのかんそうです👀)

さてnote神話部の本筋は文芸だ。作品は文章に限るといった意味では無く、文芸から派生した内容や、文芸の視点や要素を尊重するという事だと思う。
エンタメから思想哲学まで切り口は様々だ。
神話部の活動において、わたしは上に書いた考えから『神話に対する時代と人との関わり』に視点を置いた作品を多く書いてきた。
『直接的な神話の要素』を省いているため神話部作品には入れていないが『流れは塵と共に』もその一端だと考えている。

上手く表現できてきたかと言われれば正直心許ないが、これからも自分の興味を満たしていければと思う。

神話部三周年企画で、再びアンソロジーの扉絵と作品紹介のイメージ画像を担当させていただいた。
いつも楽しませていただいて、ありがたい事だと感謝している。


神話部三周年おめでとうございます。

この記事が今年最後の投稿です。
一年ありがとうございました。また来年もよろしくお願いします。


#コラム #mymyth

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