見出し画像

一語一語が育てた文芸


秋の季語に桐一葉と言う言葉がある。
桐の葉が一枚散る様を見て秋の訪れを知る。季節の移ろいを受け入れて黙って落ちる姿に、衰微の兆しを感じると言った意味を持つ。

人の心の機微を内包した情緒豊かな言葉が季語には多い。
季語に定まらない言葉にあっても、豊かな表情を持つ語句が、日本語には多く存在する。

日本人が俳句と言う文芸に行き着くまでには、長い長い歴史が存在する。
実際に節をつけて歌われていたであろう記紀歌謡に始まり、長歌が詩歌の原点の地位にある。長歌の反歌が短歌として独立し、やがて上下を分けて詠み始めた連歌が複雑な文芸として発展した。そこから連句俳諧が生まれ、最終的に俳句が誕生した。
これは単に「短くした」のでは無く、「削ぎ落とした」とは言えないだろうか。
季語を中心に、人の心の機微を織り込んだ言葉には、それ以上に飾る必要が無いと感じるからだ。

俳句は原則的に擬人化を嫌う。同時に主観を表す形容詞などの修飾を、あまり好まないと聞いた覚えがある。
それは、元々言葉そのものに息づく情緒を生かすためではないだろうか。

これは以前書いた俳句エッセイ「季語に宿る呪術性」とも連動するものだ。情緒豊かに、人の心の機微を内包させるに至った基礎的な気質を「呪術性」と、わたしは捉えている。

月影と同じ意味で月華と言う言葉がある。これは和歌(短歌)の中で生まれた言葉だと言われるが、この言葉に限ったものとは思えない。

詩歌という文芸が言葉を生み出し、言葉が文芸を次の歩みへと導いた。
そんな事を感じた。

***

こちらはハイクサークル(メンバーシップ)に寄稿したものに、若干の加筆をしたものです。


#俳句サークル #エッセイ #俳句

スキもコメントもサポートも、いただけたら素直に嬉しいです♡