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断ち切りたいのに断ち切れないでいた時に気が付いたある種の本音


 この人と別れたい。
 そう思っても、どうにも踏ん切りがつかない時がある。いったい何故?どう考えてもこの人と一緒にいることを『わたし』は苦しいと思っているのに。

 職場のあるショッピングモールの休憩室で、ちょっと苦しい恋愛をしてるんだよねって若い女性のおしゃべりが耳に入ってきたから、あ~そういえばそうそうって思ったのでちょっと書いてみたい。

 冒頭の数行。これが恋愛に絡むこと以外だとしたら。友人であったり、もっと言うならば捨てたいけれど捨てられない『物』とか。
 それは大抵の場合、思い出というものが感情を刺激するから、なのでしょう?
 一緒に大変な思いをして山を乗り越えた仲間。自分を変えてみたくて始めたジョギングの、最初に履いたシューズ。

 そんな思い出は、霞にするも自分だけの宝箱に入れるも、感情のおもむくままにできる、割と。

 とりわけ友人の場合離れたいと感じるならば、それは思い出なんぞ吹き飛ばしてしまうくらいの嫌なことがあった時だろうし。
 もしかしたら互いに仲直りできる機会があるかも知れないし、その時はその時で、と割り切れもする。
 これが恋愛になると、どうしてだか踏ん切りがつかない時があるでしょう?

『一生のパートナー』そんなキーワードで、これからの人生というスパンと重ねて考えてしまうからかも知れないし、そもそも離れたいという自分の気持ちを猜疑心の目で繰り返し眺め、ほんとはそうじゃないんだと言い聞かせてしまうから、かも知れない。

『恋人』との別れに踏ん切りがつかない時。
 どう考えても、これ以上一緒にいたって幸せにはなれない。傷を深くするだけ。そう思っていても踏ん切りがつかない時。
 そこには、普段気がつかないもうひとつの感情が隠れている場合があったりして。

 まだ若い頃、引き裂かれそうな気持ちをよくよく味わってみると、そのもうひとつの感情に気が付いて、別れを決断できたことがある。
 相手のことが大好きだった。けれど別れた方がいいと思った時には、その大好きが限りなくゼロに近くなってきたのに、それなのに踏ん切りがつかないのはなぜだろう。

 結局それは、自分が可愛かったから。そんな簡単なことだった。

 相手のことを大好きでいた自分が可愛かったって、そんな気持ちだったと『わたし』が『わたし』に突き付けて、「ね!」って。

『付き合っていた日々』というタイトルの絵本の中で、微笑んだり涙を流したりしている自分の姿が可愛くて、捨てられなかったのよね。何となくわかってもらえるかな、女の人には。

 自分が可愛い。そりゃあそうでしょ、自分だもの。でもそれに気が付いた時、わたしは断ち切りたいのに断ち切れない恋愛から、自由になれた。互いの不幸を選択せずに済んだ。

 可愛い自分は『わたし』が知っていてあげれば充分だと、思えたから。
今考えると、それはそれでとっても青くさくて、遠い目をして眺めてみても笑っちゃうような話。

 実際そんな感情のこと、すっかり忘れちゃっているから、今。
 だからこんな話をしてみるのも悪くないかな、とちょっと思ったので。



#エッセイ #別れ

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