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知ってさえいればいいから

昔から、いろいろな事をよく覚えていると言われてきた。でもわたしはさほど強くないので、忘れたい。

本卦還りを目前にして、わたしは忘れていきたい。何を思ったか。それを忘れたいのだ。

あの時こんな事があった。あんな事があった。
幼稚園のあるお寺の本堂前で星のフラメンコを歌い、屋根に登っては、今年こそは甘くなっていますようにと、渋柿がなる柿の木にお願いした。
一生連れ添う人に出会い、曲がりなりにも親になった。尊い思い出のひとつひとつ。
記憶の底から順番に折り重なったものが浮かんでは、その時こんな気持ちだったはずと、勝手に感慨深く思う。

決してそこまでは思ってなかったんじゃないか?もっとあっさりしていなかったか?
時に思い出というものは大袈裟になる。
わかっていても、半ば作り替えられたかも知れない感情と、一人遊びを繰り返す。

ここへ来て、その時の感情のひとつひとつを忘れていきたいと強く思うよになった。
わたしは強くないからだ。
過ぎた日の話だと思えば、寂しさもあれば後悔もある。もっと大切に日々を過ごせば良かったと。

嬉しい、楽しいことは、記憶の中でゆらゆらと漂いわたしは胸が苦しくなる。
それはとっくの昔に過ぎたこと。記憶の中だけなら、苦しかった事の方がまだ立ち向かえる。

あったことの事実は消えない。
ただ、そこに感情までをも寄り添わせて湧き上がって欲しくない。
わたしは、中庸でいたい。

気持ちを離せば自然と思い出も遠のくだろう。記憶のひとつひとつを薄めながら、朧げになりながら、思い出は少しずつ、少しずつ忘れていきたいのだ。

生きてきた証?そんなものは特別なものでは無く、日々の暮らしとその余白にある。
ありがたい事に年老いていく道すがら、徐々に要らぬことまで頭がまわらなくなっていくものかも知れない。

思い出の残り方は気持ちに左右されるものだ。そして徐々に薄らいでいった記憶の先で、自分を閉じていきたい。落ち葉が土にただ還るように。

それがわたしの終活だ。 

わたしが必要以上に覚えていれば、周りも同じだろう。
気持ちが通っていれば、そんなものだ。言葉の端々にも出てくる。
そんな終活は酷いと叱る声が聞こえて来そうだ。それでもこれはわたしが望む在り方なのだ。 

大切な人は無条件に大切な人だと知っていればいい。

愛する者達と別れる日のために。
愛する者達が悲しみを引きずらないように。
それは身勝手な思い上がりだとわかっていても。


#エッセイ #終活


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