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根本的な動機は


自分の創作の動機なるものを考えてみた。それは「好きだから」とはっきり言えるものでもないからだ。全くもって身も蓋も無い。

興味があったからだ。それは父が心の中で見ていた世界についてだ。
父は実に迷惑な人だった。母やわたしの兄弟はそちらの印象が強いようだ。それはそう言われても仕方がない行動が多かったとは事実なのだ。
自由人ゆえに非常識と言ってもよい。

信じられない行動をとった後、振り返ると結局良かったね、となる事も少なくは無かった。そしてそれが父の決断ゆえだとは家族は思わないのが常なのだ。

わたし達兄弟が高校受験の時、受験する学校を試験日の前に親子三人で周り、校門の前で
「よろしくお願いします!」と声を出して一礼する。
恥ずかしい事この上無い。
受験に際して父が口を出すことは無く、学校周りをした後はどこに受かるも、実際どこの学校に進学したかも気にしない。
それどころか恐らく子供達が進学した学校の名称すら覚えていたとは思えないのだ。

また、事業に行き詰まり経営していた会社を、社員の受け入れ先を決めてあっさり倒産させた事もある。

それでも父の持つ、敢えて言うならば徹底した無常観にプラスアルファと言うような精神世界を知りたいと思ったのは、尋常じゃない亡くなり方をしたからだ。

昭和7年生まれ。教育勅語で育ち、価値観が瓦解した後、思春期を闇市でむしろ楽しんだと言うベースがまずある。

その上で父が時折見せる精神世界は、繰り返す富士登山にあるのかと思っていた。とりわけ修行を積んだ先達に連れられ祠を背負って富士を登った時に何を感じたのか。
先達の指示の元、祠を開けた事もあるようだ。
ただ、それはかなり大きいとして、それだけではない事に数年前に気付いた。

何度か言っているように、父は謡で恐らく師範までは免状を持っていた。黒紋で能の仕舞を舞いながら詞章を謡う。
晩年まで家では摺り足だった。

「秘すれば花」「幽玄」「翁」「宿神」の世界だ。

能の詞章は文学や和歌、いわゆる古典文芸に寄り添いながらストーリーが作られている。
実際和歌については、父に教わったとも言えるかも知れない。あまり覚えていないが、言葉として書かれていない部分の講釈を垂れるのだ。
富士の話と闇市の話と古典の話をする時の父は嬉々としていた。(因みに古典の話を聞いたのはわたしくらいだ 笑)

謡を通して得た感性が、父の持つ精神世界に無縁であるはずは無いと思ったのだ。

元来歴史オタのわたしは、古代史偏重の好みを見直して中世室町まで下りながら、時代背景を中心に史観を積み上げてみた。

今、なんとなく理解できた気になっている部分がある。但し説明という言語化はできないと思う。
ただそれを多少なりとも創作に落とし込んできたし、これからもトライしていきたい。

神話部の活動や和歌、連句、俳句からの学びがわたしの創作の動機を支えてくれているのだと思っている。

話した人もいるが、何故わたしが父の亡くなり方に拘るのか。ダラダラ書いてきた最後に、もう一度その時の様子を書いておこうと思う。

インフルエンザから肺炎をおこした父は、回復した後についでだからと入院していた病院でひと通り健康診断を受けた際に癌が見つかった。幸い転移等はおこしていなかった。
手術予定日を待っていたある時、2日に渡って朝、日の出に向かって頭を下げ手をついたと言う。自分の人生を振り返ってそうしたと父は言った。
そしてその日母に

「充分生きたよな〜そろそろ良いかもな〜」

と、言葉を残したと言う。
そして次の日の朝同じように頭を下げて手をついていた所を看護師さんに見られている。そして暫くしてパタリと崩れた。
息を引き取って崩れたようなのだ。気が付いた看護師さんは慌てて医師を呼び蘇生を試みたが無理だった。

医師は「何故亡くなったのか、説明がつかない。解剖されますか?」と言ったが、母は断った。
父はただ命を置いたのだ。そうとしか考えられない最期だった。母もそう理解したのだ。

そんな高尚なもんじゃないと笑っているかも知れない。
父が亡くなった年齢よりもわたしが歳上になった時に上から目線で言ってやろう。

「実に迷惑な人だ」


#エッセイ #コラム

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