見出し画像

閉じなかった神話


異論はあろうかと思う。これは単なるわたし個人が感じている事であり、尚且つ上手く伝えられる気もしないのではあるが……


八百万の神々を人の暮らしの傍らに送り、それ自体はスメラミコトに繋がり閉じていった神代。そしてその後時を経て生まれた伝承や民話の数々。
職業集団の一種である『語り部』が奏上した神代ではなく、生身の人々の口と心が語り継いだ物語は、ある意味『閉じなかった神話』と言えるかも知れない。

その中で欠くことのできないひとつを挙げてみたい。
『鬼』である。

『鬼』と言う存在は、もしかしたら、日本人の宗教的思想から生まれた神に値する存在なのではなかろうか。実際祀る神社もあると聞く。

そもそも鬼は、6世紀に大陸に於いて死霊とされていたものが伝わり、古来の「オニ」と重なったものとされているようだ。オニは祖霊・地霊を意味した。
時代が下るにつれて新たな意味合いが加わり、やがて妖怪のイメージが色濃くなった。
土地に棲みつき、人の中に棲みつき恐れられてきた。
神仏習合と陰陽道の広がりを受けて、悪行の権化とされたのだろうか。
「バチが当たる」
善行によって退治されるそれは、天罰をくだす存在であるように感じるのだ。

古来よりの原始的自然信仰に於いては、天変地異を含む自然の理を、神という名をもって、人の手の及ばぬ力として崇めてきた。
一方で時代が下った先に現れた恐れるべき力は、専ら人の心と行いに作用するものに思えてならない。
わたしはその力を、上に挙げた『神』と表現したのだ。

二度使った『恐れる』は間違っているかも知れない。それは『畏れる』が正しい表現であるとも感じる。
そして『恐れる』のは、己の中に巣食う物が顕になる事だと言ったら、果たして言い過ぎだろうか。

自然への畏怖の念こそが、古来より八百万の神々を生み出してきたのであれば、人の心と行いに作用する力への畏怖が生み出した存在も、また神ではあるまいか。悪行の果てを見せつけ、結果から見れば、退治する側の善行を人の中に呼び寄せる神だ。
『因果応報』『業』と簡単に言っても、悪行は世俗にべっとりと横たわる。禁忌の結界に立つものを、人が具現化したのだろうか。

自然の理から人の心へ。
絶対的な存在を生み出して来なかった日本の風土思想は複雑で、そして奥深いものだと改めて考える。

神話は今もそこに、ある。


#コラム #エッセイ #mymyth
#冒頭に言い訳とか

スキもコメントもサポートも、いただけたら素直に嬉しいです♡