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故郷に実家があるということ

 昨日実家へ行ってきた。
 毎年恒例、母を囲んでの身内の新年会だ。
『囲んで』と書いたが、母は囲まれてはいない。趣味の料理はオリジナルレシピがまだまだ増え続け、それを振舞うのが母の喜びだ。
 どうしてあんなに元気なんだろう。85歳になっても、これまたライフワークと位置付けたボランティアのために、全国を飛び回る。
 妹にどこか悪いところはないのか?と聞いてみた。
「入れ歯の調子が少し… 」と笑うばかり。

 この実家というのは、わたしにとって故郷ではない。
 30年近く前に引っ越したからだ。元の家があった場所まで車で15分程度、裏道を自転車で行くこともできないわけでは無い。
 けれども実家のあるその場所は、わたしが愛した故郷の街では、ない。
 その『故郷』の話が出た。なんでも小学校が統合されて、名前が変わったとか。区画整理が進み、不思議な感覚になる時があると弟が話していた。それでも、ふざけて突き落とされた池のある公園も、神社も、威勢のいい掛け声が飛ぶ商店街も、すこしキレイになって、在った場所に存在する。

    ただ帰る家は、無い。

 わたしはいつかこの『故郷』の街にもう一度住みたいと、昔々に思っていた。特別な何かが、というよりもやはり『故郷』だから。そこに数々の思い出があるから愛おしいと、そんな理由からだ。そこに帰る実家がないことが寂しいのかも知れない。

「そんなこと、普通によくあることだよ」

 わたしの子供達は、三人が三人共生まれた場所が違う。長男はイギリスで。長女は都内で。そして次女は今わたしが住む柏市で生まれた。
 けれど育った場所は、三人共間違いなくこの街だ。ここで泣き笑い、苦しみそして成長していった。
 この場所が彼らの故郷だ。そしてこの故郷がやはり好きなのだ。

 だから、わたし達夫婦はずっとここに居るだろう。余程のことが無い限り。
 故郷に実家が無い。夫も同様だ。ありがちなことであっても、それがせつなく感じていたわたしは、彼らの故郷に、実家を存在させておきたいと思っている。
 単なる形だけのこと、なのかも知れない。
 それでもその形を大切にしたいと、自分の瞼に焼き付いている故郷を思いながら、わたしは今、そう思っている。

    そう言えば、母の故郷にあった実家も数年前に取り壊されて、今は見知らぬ誰かの別の建物になっていると、寂しそうに母が話していた。やはりそんな感覚は、年齢的に関係なく、ふとした時に出て来るものなのかも知れない。

    わたしも今住むこの街が好きだ。そしてこの街に住んで30年。ここも既に立派なわたし達夫婦の故郷だと、感じている。


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