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音として

それは「音」と言ってもいいのかも知れない。

これはつまり全てわたしの個人的な感覚、考えである事を先に記しておきたい。

以前「詩は難しくわかりにくい」と記事にされていた方がいた。記事の内容について共感したのでそれをコメント欄に書くと、「それでも翠さんの詩は、読む人への配慮が感じられる」と、ありがたい事にいっていただきとても嬉しかった。

詩はわかりにくいのだ。文法文である散文的表現をむしろ嫌う傾向もある。
その中で、ならばわたしは何を重視してるのだろうかと考えると、リズムなのだと思う。内在律だ。
短詩である俳句を例にしてみる。

すずの音よ一瞬が香の沈丁花
すずの音よ香る一瞬沈丁花

わたしが、最終的に決めた一句は上だ。下に例として書いた句は、わたし自身何となく気持ち悪く感じる句だ。
「一瞬」をどちらも4音と数えているし、使用している単語をモチーフとすれば、全て同じだ。そして五七五の定型でもある。
それでも引っかかるのだ。不協和音のように。
推敲前の句はもっと酷い。

一瞬の匂いすずの音沈丁花 

ダメ過ぎる。何となくどころか、はっきり気持ち悪い。

文法文から逸れたり、主語がわからなかったり、解釈の難しい自由詩というものの、一文ずつの、そしてトータルのリズムをわたしは気にしている。
歌詞というものがある。これは、曲と歌唱と共鳴する事で初めて良さが伝わるのではないか?
歌詞単体では難しいものだと思う。
そして詩はリズムを意識すればする程曲が乗らなくなるのではないだろうか。言葉が完成系として主張し過ぎるからだ。

言葉の持つリズムに耳を傾けていると、詩から音が聞こえてくるように感じるのだ。

その音が映像になり、絵画になり伝えようとする。
わたしはそう捉えている。
いや、そういった詩を生み出したいと思っている。かつてはメロディーに乗せて歌われていたはずの古代歌謡から、時代を経ても「歌」と名付けた日本の和歌を想う。

「思うままの言葉が伝わる人にだけ伝わればいい」
いや、読んでいただきたいと思う以上、それは驕りだろうから。

日本語には「詠む」と言う言葉がある。
俳句も短歌も「書く」ではなく「詠む」だ。
自由詩においても「詠む」でありたいと、僭越ながらひとつ目指していきたい。



#エッセイ #詩



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