高校の苦い味と三島由紀夫「お嬢さん」

 高校時代の記憶には苦い思い出しか残っていない。郊外の母子家庭で育ったわたしが私立の中高一貫高へ編入したのはいくつかの間違いがあったのかもしれない。私はそこで人生ではじめてのカルチャーショックというものを受けることになる。

 黒塗りのベンツで学校に横付けし降りてくる小太りの中学生、髪はさらさらで潤んだ唇とシルバーの腕時計を付けた女子高校生。彼らの姿を羨望と嫉妬、軽蔑、それまで見たことのない色の感情が私の体のなかを渦巻き、そんな自分にひどく驚いたことを憶えている。

 先日、図書館の書棚から三島由紀夫「お嬢さん」を手に取った。というのも、約10年ぶりに高校時代の友人に再会し、また当時の記憶がぶり返したばかりだったのだ。パラパラとページをめくったとき、なんとなくあの記憶の苦味を和らげてくれるかも、と感じたからだった。

 裕福な家のお嬢さんである主人公・かすみは、アシカのように無防備で幸福そうな父と従順な母との満たされすぎている生活から刺激を求めており、彼女の婚約・結婚をめぐる物語。
 かすみが自身の家庭環境を斜めに見るような嫌悪感や物足りなさは私が高校のころに同級生たちに感じていたそれとほとんど一緒だった。読み終えて、巻末にさりげなく収められていたあとがきが個人的におもしろかったのでここに留めておくことにする。

 あとがきでは、本作が三島由紀夫作品のなかでも「エンターテイメント」作品として評価されている、ということに端を発し、近代の「(純)文学」と「エンターテイメント(大衆小説)」との分裂について熱を持って書かれている。
 この分裂は、物語表現が映画やアニメ、ゲームなど多様化に加え、インターネットの発展から誰もが作り手で発信者となり、かつ消費者となっている現代においてさらに危うさをはらんでいるという。人々は目に届きやすい対象にばかり関心をもちやすくなり、自分にとって心地よい対象や難易度の作品を消費する。ちょっとした背伸びをする機会やその先の成長が失われうると。

 まさか「お嬢さん」のあとがきから、現代の芸術作品における傾向や危うさについて学ぶとは思わなかった…。またこれはどんな媒体にも起こりうる話で、たとえばYouTubeというプラットホームでも同様。発信者が増えるとはやりのコンテンツをとにかく配信する人が大多数となり、それに伴い消費者もそれを好む大衆が視聴者の大半を占めていく。これまでのマニアックなコンテンツはより少数派となり、生存が危ぶまれるというサイクル……。


 なんだか話は飛躍するし、散り散りになってしまうのでここで終わる。何はともあれ、私が高校時代の友人の再会から、三島由紀夫「お嬢さん」を読み、いろいろと路線はずれてまた新たな学びや発見を得た。決して高校時代の記憶が甘くなることはないけれど、こうして新たな発見を与えてくれることもある。

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