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読書記録『裏庭』1

※当記事はネタバレを含みます。ご注意ください。

梨木香歩『裏庭』を再読した。

主人公の照美は、小学生の女の子だ。「純」という名の双子の弟がいたが、弟は6年前に亡くなってしまった。レストランを営む両親は忙しく、家族団らんの時間はあまりない。照美の心のよりどころとなっているのは、友達の綾子の家の、「まっすぐ自分に向かって呼びかけてくれている感じがする(『裏庭』 梨木香歩 新潮文庫 32頁)」おじいちゃんの存在だ。

地元には「バーンズ屋敷」と呼ばれる屋敷がある。とても大きな庭のある西洋式の屋敷で、人が住んでおらず、庭は近所の子どもたちの遊び場となっている。照美も昔は屋敷の庭で遊んでいたが、いまはもう屋敷の庭に入らなくなっていた。綾子のおじいちゃんが倒れたと聞いた日、照美は何かに導かれるように屋敷のなかへと足を踏み入れ、不思議な大鏡を見つける。その大鏡は、バーンズ屋敷の持ち主であるバーンズ家に古くから伝わる特別な世界「裏庭」への入り口だった。鏡を通り抜け裏庭に踏み込んだ照美は、3つに解体された「一つ目の竜」を元に戻すための旅に出ることになる。

この作品は、メッセージ性に富み、暗喩がとても多い。1度読んだだけで、この物語の意味するところすべてを読み取ることができる人間は少ないだろう。私は当作品を少なくとも3度は読み返しているが、未だにすべてを理解しきれているとは言い難い。

今回は、当作品について大きく3つのことを書こうと思う。

まず1つ目は、この作品が、人間の「個」と「連続性」の両方を丁寧に扱っている点だ。

主人公は照美だが、照美だけに物語の焦点が当てられているわけではない。照美の物語だけでなく、照美の母親・父親の人生や心情が描かれる。照美の母親も父親も、「母親」「父親」という枠組みのなかで終わらない。彼らが「さっちゃん」と「撤夫」であること、彼らもかつては子どもだったことが示され、彼らの「個」としての歴史と苦悩が丁寧に描かれる。それと同時に、照美の両親と、両親を取り巻く人々の歴史が、照美のいまへと繋がっていること、すなわち「連続性」が示される。この「連続性」は、恐らく、当作品のメインテーマの一部「すべてがひとつである」ことにも繋がる。

2点目は、先述した当作品のメインテーマの一部「すべてがひとつである」ことだ。

物語のクライマックスで、探していたものが最初から自分のそばにいたことを知った主人公は、あることに気づき、呆然とする。

二つのものが、今、一つになったんじゃないんだ。もとは一つだったんだ……みんな、みんな、一つのものだったんだ……

引用:前掲書 363頁

ただし、すべてがひとつであることは、「個」の存在を否定しない。このクライマックスに至る少し前、照美は、次のように腹をくくっている。

人は生まれるときも死ぬときも、多分その間も、徹底して独りぼっちなのだ。テルミィはこの絶体絶命の瞬間に、お腹にたたき込まれるようにそのことを知った。

引用:前掲書 357頁

すべてがひとつであることと、「個」の存在は、相反しているように見えて、両立する。実際のところ、世の中の多くはそうである。相反しているように見えて両立することはとても多い。わかりやすい例を挙げれば、「犬と猫は同じ生き物である」ことと「犬と猫は同じ生き物でない」ことは両立する。前者は「犬と猫の両者が"生物"の枠組みのなかに分類される」の意味で、後者は「犬と猫は別の種類の生き物である」の意味である。前者と後者は視点が異なり、どちらの視点も間違っていない。同じ原理で、「我々は同じ人間である」ことと「我々は別の人間である」ことは両立する。「すべてはひとつ、すべては同じ」ことと「私は私である」ことは両立する。

なお、先の引用の「テルミィ」は、照美と同一人物であることを記しておく。

3つ目は、2つ目と同様にメインテーマの一部である「闇の部分も含めて、自分自身を受け入れる」ことだ。

物語の終盤で、主人公は「根の国」と呼ばれる場所(「地下」とも表現される)の深くへと潜っていく。注目すべきは、このとき、照美と共にある存在と、照美を追ってくる存在だ。主人公が根の国に踏み入れて間もなく、彼女のもとに小さな男の子の妖精が現れ、彼女と連れ立っていく。妖精は「タムリン」と名乗り、「タム」と呼ばれても構わない旨を述べる。この妖精について、以下のような描写がなされる。

地下に深く降りれば降りるほど、タムはピュアな美しさをたたえていくような気がした。言動も、どんどん無邪気で可愛らしくなっていくようだ。

引用:前掲書 335頁

一方で、主人公を追ってくる存在がある。これは恐ろしい化物で、主人公はこの化物を非常に恐れ、逃げようとする。この化物の存在は、はじめ、臭いによって知覚される。

突然、邪悪な臭いが流れてきた。テルミィは、はっとして目を開けた。匂いに善や悪があるなんて今まで考えもしなかった。けれどそれは邪悪としかいいようがなかった。

引用:前掲書 317頁

この化物は、主人公をどこまでも追ってくる。その姿は、主人公が深くへ降りていくにつれ、より醜悪に、より大きくなっていく。最深部にたどり着くと、上へ昇る道が開けており、彼女は飛行によってゆっくりと上へ進んでいく。化物はそれでも追ってくる。とうとう主人公は、飛行している最中に化物にしがみつかれてしまう。化物への嫌悪感で苦しむ主人公だったが、妖精が化物を上へ引き上げてほしいと思っていることに気づく。「タムがそう願うなら」と、化物を引き上げながら上へと昇りはじめた主人公は、光り輝く無邪気で可愛らしい妖精と、醜悪な恐ろしい姿の化物が「同じ」であることに気づく。主人公は化物に向かって、明らかになった化物の名を叫ぶ。そうすることによって、妖精と化物が1つになり、主人公は探していたものを手に入れる。

この一連の流れが表すことを端的にいえば、「自分自身の心を深く掘り下げていき、自分の心の光の部分と闇の部分の両方を受け入れること」だろう。

主人公が地下深くへと降りていくのは、彼女が自身の心の深層へ潜っていくことを象徴する。光り輝くピュアな妖精は、彼女の心の光の部分(善い部分、純粋な部分ともいえるだろうか?)を象徴し、醜い邪悪な化物は、彼女の心の闇の部分(邪悪な部分、汚く穢れた部分)を象徴する。主人公は自身の汚い部分や醜い部分を受け入れ難く、化物を恐怖し、嫌悪し、逃げ惑う。しかし、自身の心の1番深い場所で、彼女は、妖精と化物の両方が「同じ、自分の心である」と気づく。

彼女が、化物を引き上げながら上昇していくシーンは示唆的だ。

上昇させる力と、下降させようとする力。肩に力を入れすぎてもいけないが、抜きすぎてもいけない。静かな覚醒。
その様々なバランスを、テルミィは実践しながら学んでいった。あまりに注意深く集中したので、驚いたことに再び現れた化物への嫌悪もテルミィの心のまんなかを占めなくなった。

引用:前掲書 362頁

上昇させようとする力は、主人公が妖精に勇気づけられて上へ昇ろうとする力を指す。下降させようとする力はしがみつく化物の力を指す。この上昇の過程は、主人公が、自分の善い部分と邪悪な部分の両方と折り合いをつけながら前へ進むことを表すのではないか。

このような「自身の心に闇の部分があることを認め、受容する過程」は、物語の1つの類型である。 アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記1 影との戦い』をその例として挙げられる。また、この過程は「もとは1つだった複数に分かれたものを、1つに統合する」意味で、解離性同一症(多重人格障害)の治療過程を想起させる。

この作品の驚くべき点は、いっけん別々のテーマのように思われることが、実はすべてがつながっており、同一であり、1つである点だ。

本稿では、下記3点を取り上げた。

この作品が人間の「個」と「連続性」の両方を丁寧に扱っている点。

「すべてがひとつである」こと。

「闇の部分も含めて、自分自身を受け入れる」こと。

1つ目の連続性が、2つ目の「すべてがひとつである」ことにつながることは先述した。

そして、「すべてがひとつである」ことは、3つ目の「闇の部分も含めて、自分自身を受け入れる」ことにもつながっている。主人公の光の部分の象徴である妖精は、闇の部分の象徴である化物と1つになる。受け入れることは、1つになることなのである。私は本稿を書き始めた時点で、「すべてがひとつである」ことと「闇の部分も含めて、自分自身を受け入れる」ことが、当作品の別個のテーマだと錯覚していたが、それは間違いだった。すべてはつながっていた。

ぜひ自分自身で当作品を読んで確認してほしいが、当作品には、本稿で触れたこと以外にも、つながりを描いた劇的な展開が用意されている。少し恥ずかしい話だが、今回の再読のラストシーンで、私は泣きそうになってしまった。すべての子どもとすべての大人に勧めたい本である。


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