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それは本当に理性か?~恋人と話したこと①~

恋人が言った。世の中で「理性」という言葉が使われるとき、その多くが実際には「信念」や「習慣」、「文化」ではないかと。

たとえば、お腹が減っていてちょうど財布を持っていないとき、通りかかった店の店頭に美味しそうな饅頭が置かれているのを見かけたとする。お腹が減っているし、とても美味しそうな饅頭なので、今すぐ手に取って食べたい。しかし、このとき、多くの人がとる選択肢は「手にとって食べるのを我慢して通り過ぎる」だろう。お腹が減っているからといって、お金を払わず売り物を食べるような真似はしない。

この例のように人に欲求を我慢させるものとして、「理性」が挙げられることがあるが、それは本当に理性だろうか?

思考の道筋を想像してみよう。店頭の美味しそうな饅頭を見かける。食べたいと思う。でもお金がない。手に取って食べるのはよそう。それはなぜか?お金を払わずに店の商品を食べてしまうのはいけないことだから。

このような「〇〇はいけないことだから、そのようなことはしない」という行動原理は、「理性」というより「信念」ではないだろうか。「自分は悪いことはしない」という「信念」に基づいている意味で。

次に、先ほど挙げた例の状況を変えてみよう。もしも、場所が日本ではないどこかの国で、その国では「店のものをうっかり食べてしまっても大丈夫。翌日にお金を支払いにくればよい」という文化圏だったら?

我慢して通り過ぎる人もいるかもしれないが、その場で饅頭を食べる人もいるだろうし、饅頭を食べても、「悪いことだ」と批判されることはない。

だとすれば、「店のものを食べたくても、お金がなければ食べるのを我慢する」のは、「文化」や「習慣」の問題ともいえるのではないだろうか。「払えるお金がないのに店のものをとってはいけない」という文化・習慣があるからだ、と。

ここまで書いてきた内容に対して、反論があるかもしれない。人が店のものをお金を払わず食べるのを我慢するのは、それが法律違反で、罰則があるからだ、と。

しかし、我々が「お金がないのに店のものをとってはいけない」と考えるとき、その理由として、真っ先に法律や罰則を挙げるだろうか?小さな子どもにそれを教えるとき、「法律違反だし、店の人や警察に怒られるから、店のものをとったらダメだよ」と言い聞かせるだろうか?

実際のところ、「〇〇はいけないことだ」と口に出し、その理由を語るときには、人道や倫理の問題が真っ先に挙げられることが多いはずだ。そして、人道・倫理は、文化・習慣・信念のいずれとも深い関連がある。

現代社会に生きる我々は、理性をやたらと尊び、いとも簡単に、当然のように、「理性」という言葉を使う。しかし、それは本当に「理性」か?

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