コーヒーだけを、だらしなく。
それがカフェでも喫茶店でもいいのだけれど、コーヒーが飲めるお店を探している。
ほどほどにおいしいコーヒーを飲めて、ちょっと長めにのんびりできるお店がいい。
もちろん、コーヒーはおいしいほうがいいが、僕は自他ともに認める舌バカなので、ほどほどでも特に問題はない。ただ、まずいのは困る。飲みにくいから。
お店の店主さんが出してくれるものはコーヒーだけ、というお店がいい。内装も、そこそこ小ぎれいであればいい。
たとえば、「充実した毎日を送るためのちょっとしたヒント」とか「(わかる人にはわかる)店内のすみずみにまで行き渡ったこだわり」とか「質の高いアウトプットを生み出すためのささやかな気づき」みたいなものは出ていなくていい。
WiFiのように目に見えないけれど店内をびりびりと満たしている「そういうもの」を誤って(僕の脳が)受信してしまうと気持ちが疲れてしまい、だらしない気持ちでのんびりできなくなる。
「そういうもの」を発信しているお店には、「そういうもの」を受信し、その受信ログを発信するお客さんが集まったりする。そこではそのお店や店主さんについてのトリビアが語られ、テーブルフォトが撮影される。そこで生まれ育ちふくらみ続ける「意識」のようなものは、僕のようなだらしない姿勢で座っている人間をぐいぐいと押してきて、前後左右に傾け、傾いた体に乗っかってきたりするのだ。
とはいえ、「そういうもの」の意義や面白味についてはじゅうぶんではないかもしれないが理解はしているつもりだ。それどころか、かつては「そういうもの」を楽しむ側にいたこともあったような気がしないでもない。
ただ、今の時点ではそれは僕には必要のないもの、というだけのことなのである。それが今だけのことなのか、この先の人生ずっとなのか、そこらへんはよくわからないのだけれど。
お店が売ろうとしているものが自分にとって必要ないものなのであれば、そのお店には入店しなければいい。心身のコンディションというものは日々刻々と変化するものなので、いつかそのお店で売られているものが欲しくなることもおおいにあり得るわけで、そうしたら、そっとドアを開けてみればいい。
とにかく今は、散歩をしていてちょっと疲れたな、と思った時にふと立ち寄ることができて、だらしない気持ちでのんびりしながらコーヒーが飲めるお店を探しているのだ。
それはきっとそれほど難しい探しものではないはずで、それでもなかなか見つけられないのは、僕の探し方が悪いのだろう。
……というかきっと、平日だろうが夜中だろうが調査ができるということで、ついついインターネットに頼った探索をしてしまうところに問題があるような気はする。
みたいなことを考えていたら、なんとなく八代亜紀の『舟歌』を思い出してしまった。
なんじゃいそりゃ。
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