感染してもしなくても。もしくは一カ月ぶりに出勤して思うところ。
およそ一か月ぶりに出社してまず思ったのが「言葉が口から出てこない」ということだ。
もちろん、自宅待機期間中にまったく会話をしなかったわけではなく、日用品を買いに行けば店員に声をかけたりかけられたりするし、そもそも家族とはそれなりに会話はしている。会社での会話で使う脳はそれらの会話では使用されていなかったようで、久々に稼働した脳のその部分が盛大に空回りする音が頭の中から聞こえてきた。
口がまわらずモゴモゴとした音を発していた午前中は、連日通常勤務していた面々にはさぞ不気味に見えたことだろう。
朝イチの社内メールで、フロア内一斉報知がある。
同じフロアで作業をしているアンノウンさんが高熱を出したという連絡が自宅からあったらしい。アンノウンさん本人は出社を停止、作業の関係でアンノウンさんと濃厚接触していた某さんはフロアの隅にあるミーティング用スペースにPCごと隔離された。隔離された某さんがなにかに感染しているという確証はないものの、隔離されたスペース近くにあるフロアの出入り口は使用しないように、とのことだ。
同じフロアといってもいくつもの会社の人間が数百人も入り乱れているようなところなので、そこにいるすべての人間が顔見知り、ということはなく、アンノウンさんにしても某さんにしても面識のない人だ。某さんが隔離されたスペースは僕の席から近かったので、首を伸ばせば様子を見ることができた。大きなミーティング用テーブルの隅にちょこんと座り、周囲の視線を気にしながらキーを叩く某さんは、なんとも気の毒に見えた。
使用を控えるよう通達のあった隔離スペース近くの出入り口は僕が使う最寄りの出入り口でもある。だからついついフロアから出る時にそちらの方に近づいてしまい、その度に某さんの背中を見ながら「ああそうかここは近づいてはならぬのだ」などと思いつつあわてて方向転換をすることになった。半日経っても体に染み込んだクセは抜けず、またもや使用してはならぬ出入り口にのこのこと近づいた時に「しまった」とつぶやき、やや重たい気分になる。
もちろんこの「しまった」は某さんに向けられたものではない。感染リスクをなるべく避けるという取り組みに納得しつつもクセに流されてしまう自分に対して思わず発したものなのだが、口を出た言葉を音として聞くとそれはいやな響きであった。どうかこの一言が某さんに聞こえていませんように、と思う。
夕方、上司から社内メールが来る。
本社の近くにあるバーが、今回のコロナ禍の影響で閉店したらしい。四月上旬に期限をいわゆる「当面の間」として休業し、今月のどこかで営業を再開を目指していたもののそのまま閉店したそうだ。
メールを読んでいるうちにどんどんさみしい気持ちになってきて、自分が思っていたよりそのお店が好きだったんだなあと気づく。忘年会のような社内の飲み会の帰り、駅に向かう途中で、たまたまある上司が近くを歩いていた時に誘われることがある、という頻度で行っていたお店なので、そこで飲んだ回数は四、五回というところかもしれない。薄暗くて、ほどよく人の声がして、カウンターの中にいるバーテンのシャツが少しよれていて、カニクリームコロッケが名物で、だらしなく座るのにちょうどいいソファーのある居心地がよいところだった。そういえば、そこで僕は生まれて初めてレーズンバターを食べたのだ。コースターに描かれたイラストがかわいらしくしゃれていたので、酔った勢いで店員さんにお願いしてもらったことがある。
コロナ禍の下、いろいろなお店が苦境に立たされているという状況を知らないわけではなかったけれど、このメールはちょっとした衝撃であった。この新型のウイルスは、感染していない人間をも傷つけていくのだなあ、といまさらなって実感する。
帰宅時の通勤電車で、なかなか思うところの多い一日であった、などと思いつつ、いくつかの「思うところ」を体の中から取り出して眺めてみる。焦点を少しぼかしたまま体の中にしまっておいた「思うところ」たちは、よくよく見るとそれぞれ微妙に違った色合いではあるものの、中は暗く奥深く、凝視しようとすると目が疲れた。奥行きの果てがわかりにくいので僕の目のピント調節機能がうまく働かず、自分が何を見ているのかわからなくなる。
僕は「思うところ」たちを手の中でぎゅうぎゅうと圧縮して、ひとつの小さな「思うところ玉」にして、再びそれを体の中の胃袋の少し下あたりにそっと置いておいた。「思うところ玉」はなんともいえない……というか、僕の乏しい知識では的確な名前がわからない色をしている。意外と、冬に着る厚手のコートなどに使うとかっこいい色かもしれない。
今、インターネットを見ていると、いろいろな人たちがいろいろなコンテンツを提供してくれていることがわかる。それはライブの配信であったり慣れない手つきで料理を作る動画だったり画面をいくつかに分割して複数の人間が雑談をする様子を見せてくれるものであったりと内容は様々で、いわゆる「おうち時間を楽しく」という意図で発信されているものだ。それなりに手間と時間をかけてそういうコンテンツを作る人たちには頭がさがる。それらのコンテンツの中には僕自身楽しみにしているものもいくつかあり、帰宅後にその中のひとつである落語の配信動画を視聴する。
落語を見ながらふと気になって体の中の「思うところ玉」を触ってみる。それはさっきと同じ胃袋の少し下あたりにあり、大きくもならないかわりに小さくもならず、ただ静かにそこにあった。落語を見終わった後もその状態に変化はなく、少なくとも落語が面白くても「思うところ玉」には影響を及ぼさないらしい。なるほどそりゃそうかもしれないな、と思う。
「思うところ玉」がこれからどうなるのか、そのへんのことはよくわからない。順調に圧縮率を高め、またもや僕のボキャブラリーの中にない色に変化したりするのかもしれないし、もしかしたら光も反射しないような真っ黒になるのかもしれない。
ただ、今日一日の感想としてなんとなく思うのは、「思うところ玉」は体の中にあってもいいもののような気がしている。その理由を簡潔に述べよ、と問われてもうまく答えることはできないし、「思うところ玉」が体にいいものだとも思わないけれど、体の中にそっと置いておき、たまに様子を見ては「ふむふむなるほど」などとつぶやいていようと思うのだ。
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