見出し画像

痛みや怖さを見せ合うことから何かが始まるのかもしれない。「北フェス」でデンマークの教育の話をして考えさせられたこと

先日、北海道で小学校山田洋一さんが長年やっておられる教育研修サークル「北の教育文化フェスティバル(北フェス)」に呼んでいただいて、デンマークの教育の話をしてきた。テーマは「デンマークの教育とウェルビーイング」。

前半はスライドに沿って私が話をし(とはいえ途中で山田さんから質問やコメントが飛んでくる感じ)、後半は山田さん中心に、参加者の皆さんから感想や質問をもらっておしゃべりするという内容。今回は特に、このデモクラシーの4ステップの話がメインになったかと思う。

ざっくりいうと・・・デンマークには「日常の中のデモクラシー」が根付いている。選挙における投票率が高いということが注目されるけれど、社会システムの話のもっと手前にステップがあって、これらが地続きになっていることが重要なポイント。自分のニーズ(これがしたい+これはいやだ)をつかまえて表現することが大切にされていて、子どもたちはそれを尊重される経験を積んできている。その先に友達との折り合い(互いに異なるニーズがある時にどうするか?)とかコミュニティをどう運営するか(クラス自治、学校自治など)があり、その先に「どんな社会にしていくべきか」ということがある。日本は1段目でつまずいていることが多いのではないか、という話。デンマークの教室では(他のヨーロッパの国々もだが)、子どもたちがリラックスしてのんびり思い思いの姿勢で学びに向かっていて、日本にあるような「態度主義」はない、という話もした。

私の中では、本にも書いていて、新しい話ではないけれど、「すごく刺激的だった」と言っていただき、インパクトがあったようだった。
(※デモクラシーの4STEPの出典を何名かの方から聞かれました。これはオリジナルでして、以下の私の本に載せております。学術的なものではないので、ご了承ください…)

そして、終了後、参加者の皆さんの感想を送っていただいた中に、こういうものがあった。(一部抜粋)

学級崩壊を経験して態度主義から離れられませんでした。自分の価値観をはがすこと、教師の存在を薄めること、今ここが幸せであること、言葉が肚に届きました。

自分の価値観を剥がすところから始めないといけない、そして、それが、なかなかできないでもがいています。「ねばならない」「こうあるべき」という観念や先のことを考えると必要なのでは、日本で生きるためには…みたいな思いを剥がせないでいる毎日です。
「将来困ることはないのか、将来のためだから今がんはれ」という話はまさにわたしそのものでした。
今、充足していることは将来のためにいいこと、というお話が心に響きました。
また態度主義が捨てられない自分がいて、それが恥ずかしくもなかなか捨てられない、そうして子どもたちの大切な何かを奪っているのではと思うと今年一年、いえ、教職二十数十年を振り返るのが恐ろしく目を伏せたくなる瞬間でした。
もう今更なんて投げやりな気持ちにならず大きなことはできないけれど目の前の子どもたちにできることをこれまでの自分を変えていこうと思った時間でした。

今日はUDLの教育観に出会った時のような衝撃を得ました。心地よく楽しく過ごすことが重要とされる、そんな中で子供達がどんなふうに成長して社会に出ていくのか、私は育ちも先生業も昭和にどっぷり漬かった人間なので正直想像できませんでした。
同じように子供達が生き生きと主体的に学べる姿を思い描いているのに、こうも自分と生き方や考え方や価値観や教育観へのアクセスの仕方が異なると、どうしたらいいのか、若干パニックになっています。
現場で凡人ができることってなんだろうと思います。人よりネガティブなため、楽しいと感じるよりもがむしゃらに苦労してきただけに、大事にしなきゃいけないものが時代にそぐわないのだろうなと少し悲しくなりました。剥がさなきゃならない鎧が多すぎるような気がします。
退職が見えてきましたが、もう一度自分へきちんとアクセスして、どうしたいのか、何を捨てるのか、何を大事にしたいのか整理して他者理解したいと思います。
新しいものに触れるたび、学びの大切さを痛感します。

本当にありがたい感想で、すごく考えさせられた。私の発信する内容は、現場の先生の一部には「痛み」を与えるものでもあるんだなと言うことを読みながら感じ、そこは自覚しておかないといけないな...と再確認させられた。

今回、参加者の皆さんが、自分の中に生まれた「痛み」を、「痛み」として感じ取って言葉にしてくださったことは、簡単なことではない(すごい)。これもまさに「自分にアクセスする」ことだと思う。痛みを感じとる手前で、「怖さ」によって、「変わろう」というメッセージを否定・拒絶してしまうケースの方がおそらく多い。今回は私がゲストというセッティングだったので、否定はしにくかっただろうけれど...それでも受け取って自分の中に取り込んでくれたことが、ありがたいと思った。

School Voice Project の理事のみんなや、SVPでやっているエンタクにいる皆さんをはじめ、私が普段付き合っている先生たちの多くは、デンマークの話を聞いてもおそらく傷つかない。共感してくれ、むしろエンパワーされる人が多い気がする。でも、すべての先生がそうではない...というか、そうではない先生の方がきっと多いはず。

このことを山田さんに伝えたところ、「いわゆる学習者中心主義みたいなことを推し進める際にも、やはり暴力的であってはならないと私は思っていようと思います」というメッセージをいただいた。そうだな・・・と思う。

一方で、オルタナティブを目指そうとしている先生たちも、「痛み」「怖さ」を抱えている。むしろそちらがマイノリティなので、きっと職場でしんどい思いをしているのは自分たちだ、と感じるのではないかと思う。でも、最近では、社会の風はそちら向きに(オルタナティブ路線への追い風として)吹いているので、その点ではパワーを持っている側面もある。そのパワーを無自覚に行使すれば、対立は激化するとも思う。私としては、なんとかこの、「傷つけ合い」から抜け出したい。

厳密に言えば、学校が変わっていこうとするときに、傷つけ、傷つくことは避けられないと思う。でも、痛みを与えていることを自覚しながら、自覚していることを互いに伝え合いながら、共有できるビジョンを探したり、合意形成を進めていく必要があるのではないかと考えている。

そして、「傷つけ合い」から抜け抜け出すためには、対話が必要だと、やはり思う。
対話とは・・・言い合うことではなく、聴き合うことであり、気持ち・感情を見せ合うことを含む。お互いが「自分にアクセスしている」状態で、自己開示をし合うこと。むしろ、言葉を交わし合いながら、だんだんと、お互いに「自分にアクセスしている」状態になっていくことで、議論や話し合いは「対話」になっていく。対話は"する"ものではなくて、相互作用の中で、"起こる"ものなのだと思う。

さて、私には何ができるか。それを考えていきたい。

最後まで読んでくださってありがとうございました。 よろしければ、フォロー・サポートなどしていただけると、活動していくうえでとても励みになります^^