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Long Last Date [-3.0]

世界の終わりの日の空はどんなだろうか。
開いた天使の翼のように両手をベンチの背に掛けながら、下界は風もないのにゆっくりと形を変えながら動く天空の雲をぼんやりと見上げていると、そんなことを考えていた。

ぺンキだか漆喰だか、いたるところが剥がれかかった汚ない中学校の男子便所で、僕は四つか五つ並ぶ便器の一つに用を足していた。顔を上げるとその高さに横に細長く伸びた窓があり、その向こうに、夜がとぐろを巻いていた。それはゴッホの描く夜空のようだった。しかもその青黒くまがまがしい幾つもの渦はゴッホのものよりもごてごてと盛り上がり、さらに不吉でおぞましく、その上わずかに盛り上がった渦の縁が血のように赤黒い。言いようのない不安に囚われながら、さりとて勢いよく迸る黄金の液体を急に止めることも出来ず、僕はどうしようもなくしばらくじっとそれと向かい合っていた。夜空というものは距離感は掴めないものの、普通、はるか手の届かない彼方にあるはずのものだが、それはすぐそこにあった。まるで現実感がなく。まるで夜空という壁に張り付けたジオラマ写真のように。そこにあった。夜のジオラマ。ジオラマの夜。不吉な物体として。

その夢の中の僕は中学生。おそらく。先ほど自分でも中学校の男子便所と書いた。しかしそのどちらにも確たる根拠はない。ただ、そう思い込んでいるだけだ。しかし誰が?夢の中の自分か?その夢を見たことを朝覚えていた当時の自分か?それともその当時のことを思い出して今これを書いている自分か?あるいはそのすべてか?そもそも、その夢をいつ見たのか、正確な時期を覚えていないのである。中学生の自分が、中学生だと自己認識している自分がそういう夜空を見た夢を見たのか。それとも自分が何者であるか自己意識などまったく持たない自分がそういう夢を中学生の時に見たのか?それとも、自分が中学生だと自覚している自分が、あるいはそういう自己認識のない自分がそういう夜空を見た夢を、高校生になってから見たのか?ただその夢を見たのが中学生か高校生の時分であって、それ以前でもなければそれ以降でもないというのは確かであるが、それもまた根拠のない単なる確信または盲信に過ぎない。

その便所が中学校の便所であるというのもそうである。誰がそれを中学校の便所だと思っているのか?夢の中の、夢を思い出した、あるいは今これを書いている、どの自分なのか?その根拠は?今、必死になって、自分の中学校の便所がどういうものだったか思い出そうとしているのだが、一つだけ確かなことがある。それは、僕の通っていた中学校の男子便所では絶対ない、ということである。なぜなら、僕は女性であり、生まれてからこの方、男子便所なるところに一度も足を踏み入れたことがないからである。

え?と今ほんの少しでも思ったあなた。私は少し嬉しい。わーい、引っかかった、て感じで。ほら、よくあるじゃないの、推理小説に。主人公が男性だとずっと思い込んでいたら、実は女性だった、とか、ね。若い青年だと思っていたらジジイだったとか、さ。あるいは別人だったとかっていうやつ。作者は読者の錯覚と思い込みを誘導するよう周到に言葉とプロットを練り、最後にどんでん返しでアッと思わせるっていうやつ、あるじゃない、叙述トリックとかいうんでしょ、あれ。自分のことを僕という女子だっているもんねー、て感じ。別に推理小説書きたい訳じゃないんだけど、退屈だし書いてるうちにちょっとおふざけしました。女のわけないでしょ。さっき「必死になって、自分の中学校の便所がどういうものだったか思い出そうとしているのだが」と書きました!ほんとに男子便所に一度も入ったことのない女だったら「思い出す」はおかしいでしょ、という話。ま、中学生の頃から男子便所に出入りする変態女子なら話は別だ。

あ、そうか。だいたい、はっきり覚えていないのだから、実は自分は女性で、その女性が自分が男子学生だと思っていて男子便所で用を足している夢を見た、という夢を見たのかもしれないし。だいたいからして、これを読んでいるあなたは、これを書いている僕が、私が、俺が、あたいが、男か女か分からないはずで、男が自分を男だと思って男子便所でグロテスクな夜空を見た夢を見たのか、男が自分を女だと思っていて男子便所に入って、おぞましい夜空を目にした夢を見たのか、女が女のままの自己認識で男子便所に入って、目を上げるとおどろおどろしい夜の空を目にした夢を見たのか、夢の中で自分が男だと思っている女が男子便所で狂気じみた夜を目撃したのか、本当のところは何一つ分からないわけで。いや、そんなことないでしょ。あんた、男でしょ。この note の他の記事読んだら一目瞭然じゃん、て。そんな夢から覚めるようなこと言わないでよ。ほんとに夢がないんだから!

青黒くとぐろを巻いた夜空。その渦の巻いた線からわずかに血の色が滲み出ている。そう、世界の終わりの日の空だ。夢の中の自分は、それが一体誰であれ、紛れもなく「自分」は思っていた。世界の終わりだ、と。だから、何がだからだ?、私は知らないうちに思い込んでいた。それはこんなでなければならない、と。世界の終わりの空は、その夜、どの夜だ?、夢の中の自分が、どの自分だ?、が見たこの目で見た、どの目だ?そういう空に違いない、と。

しかし、眺めているうちにどんどん深くなり、やがてはイブ・クラインの青よりも深い青空に、ただ意味もなく漂い浮かぶ白い雲をただぼんやりと眺めながら、案外、世界の終わりの空はこういう空なのだろうと思っていると、

世界が突然消えた。

  だーれだ。

亜津子だった。ギャップ萌え 当時はそんな言葉はなかったが、これがギャップ萌えでなくて何であろう。考えても見てくれ、って誰に言ってるんだ、俺は?、あの亜津子が、だーれだ、だぜ。あの亜津子が。

後ろから両手の指先を重ねるように私の目を覆ったので、私は両頬に彼女の手のひらの肉の感触を感じていた。それはさながら猫の肉球のように柔らかくふっくらとしていた。いや、嘘つきました。僕は猫に後ろからだーれだなど生まれて一度もされたことがないので、その猫の肉球がその角度で俺の顔面に触れる感触など分かるはずもない。猫にだーれだをされたことのある者などこの世に一人たりともいないに違いない。それを言うなら、他の猫にだーれだをされたことのある猫もいないに違いないのだが。

あー、気持ちいい。柔らかくて暖かい。このまま世界が終わってもいい。

  ちょっとー、いつまでこんな恥ずかしいことさせておくつもり?

亜津子は俺の目を覆っていた両手を後ろに引くようにして僕の顔を仰け反らせ、両手を外した。亜津子の猫顔が上下逆に目の前に広がっていた。そしてそのまま唇を重ねてきた。

それはどんな猫の肉球よりも柔らかく気持ちよかった。たぶん。


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