青い壜
明日も忙しいというのに、とうに夜半を過ぎて、この時間、何をやっていることやら。
本屋でふと、R・ブラッドベリの「とうに夜半を過ぎて」という短編集を手に取り、つらつらと読んでいる。
その第一話は「青い壜」という短編。今から少し遠い未来、人類が開拓し、そして棄て去った火星の、廃墟となった都市を、一人の男が伝説の「青い壜」を捜し求めて、あてのない旅を続けている。
それが何なのか、中に何が入っているのか分からない、ただ伝説の「青い壜」を捜し求めて。
『その部屋を終り、次の部屋を襲おうとベックは呼吸をととのえた。捜索をつづけるのはなんだか恐ろしいような気持ちだった。今度こそ発見できるのではないかと思うと、恐ろしいのだ。捜索が終れば、ベックの人生から意味が失われてしまう。……
『人は闇から光へ、子宮からこの世界へと出て来て、自分が本当に求めているものを、どうやって見つけたらいいのだろう。』
私は常々、この世には二種類の人間がいるのではないかと思っている。「青い壜」を捜し求める人間と、そうでない人間。「生きる意味」という病に犯された人間と、そうでない健全な人間。
この小説のベックと、そしてもう一人の作中人物、クレイグという男のような人間。
『いや。クレイグは違う。クレイグはたぶん遥かに幸運なのだ。この世界にあって、少数の人間は動物に似ている。何一つ問いかけることをせず、水溜りの水を飲み、子を産み、子を育て、人生が良きものであることを一瞬たりとも疑わない。それがクレイグだ。クレイグのような人間は少数だが確かにいる。神の御手に包まれ、宗教や信仰を特別の神経のように体内に収め、広大な保護区のなかに生きる幸福な獣たち。数十億のノイローゼ患者にとり囲まれた正常人。彼らの望みは、いずれ自然死を死ぬことだけだ。今ではなく。いずれ。』(『 』内の訳はいずれも小笠原豊樹)
クレイグのような人間が幸せなのは、議論の余地がない。ブラッドベリもクレイグのことは、どこかほのぼのとした好感の持てる筆致で描く。しかし病み悩むのが人間であり、そこから逃れられないのも人間である。その人間存在に対しても、ブラッドベリの筆致は慈しむような優しさに溢れている。
私もまた、どちらかと問われると、青い壜を追い求めるタイプの人間なのではないかと思う。しかも、年をとるにつれ、より乾いた焦燥感を伴うようになってきた気がする。
ひょっとして、もう何度も何度も手に入れてしまったのかもしれない。手に入れた瞬間、その青い壜は青くなくなり、何の変哲もない薄汚れた透明の壜になってしまうのであろう。そんなことを繰り返せば繰り返すほど、その美しい青さから遠去かり、自分の人生は無意味な、薄汚れたざらざらとしたものになっていってしまうのである。
クレイグのような人間が幸福であるのは、100パーセント確かである。
別ブログより転載。オリジナルは 2010年5月13日投稿。
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