見出し画像

書き手の息遣いが伝わってくる文章が好きだ

私は読書を好んでするが、最も好きなジャンルは日本の近現代文学である。

小学生の頃から読み込みまくった「ハリー・ポッター」シリーズをはじめ、クリスティ、ドイルなど、外国文学にも好きな作品はもちろんあるのだが、やはり日本の作家のものに特に心惹かれる。

また、私は日本文学科の卒業生であるにもかかわらず、古文が読めない。
一応言い訳をしてみると、私の大学は、入学当初から上代、中古・中世、近世、近現代、と時代別の専攻を選べたため、古文の講義を全く取ることなく卒業できてしまったのだ。

三島由紀夫や川端康成など比較的近年まで存命していた作家については、動いたり話したりしている映像が残っていたり、実際に親交があった人物が思い出を語っていたりして、『本当に実在していた人なんだなぁ』という実感が湧きやすい。

それに比べて、森鴎外や夏目漱石、芥川龍之介なんかは、遥か彼方の「歴史上の人物」感が強い気がする。
紙幣の肖像になっていたりもするし、なんというか、豊臣秀吉とか徳川家康とかと同じカテゴリーにいる人というイメージなのだ。

だが、『こころ』や『坊ちゃん』を初めて読んだ時、意外な驚きを感じたことを覚えている。

明瞭で読みやすい文体に、古くささを感じない鮮やかな情景・心理描写。なんというか、想像よりもずっと、自分に「近い」物語だと感じた。てっきり、もっと堅苦しくて小難しい言葉が並んでいる、歴史文書のような物語だとばかり考えていたのだ。

その夏目漱石の弟子・芥川龍之介が、彼の葬儀に参列した時のことを描いた短編のラストは、次のように締めくくられている。

会葬者の名刺を束にする。弔電や宿所書きを一つにする。それから、葬儀式場の外の往来で、柩車の火葬場へ行くのを見送った。
その後は、ただ、頭がぼんやりして、眠いということよりほかに、何も考えられなかった。

『葬儀記』/芥川龍之介

ただ自分がやったことと、眠いという感想を淡々と述べた文章だ。
それなのに、葬儀の日独特の現実的な忙しなさ、空虚で重苦しい疲労感、そんな空気が手にとるようにわかる(ような気がする)。

もちろん、凡人とは違う才能、繊細さや破天荒さを持った人たちであったことには違いない。
それでも、彼らが一人の生活者として、人間として、日々の雑事をしたり、いろんなことに葛藤したりしていたんだと考えると、なぜかとても奇妙でうれしいような気分になる。
彼らは確かに生きていたんだなぁ、ということがひしひしと伝わってくる。
これぞ文豪、といった具合に難しい顔でポーズを決めるおなじみの白黒写真を眺めるよりも、何倍も。

残念ながらこういった感覚は、私の場合、文語体で書かれた物語や外国文学からはあまり得られない。

「翻訳」が入ることによって、書き手と自分との間が、一枚の壁で隔てられた気がするのだ。

翻訳を軽んじているとかいうわけではない。
翻訳は、機械的に現代語なり日本語に変換すればいいような単純なものでないことはわかっている。
例えば『源氏物語』には、与謝野晶子版に始まり谷崎潤一郎版、瀬戸内寂聴版、田辺聖子版…と様々な作家の現代語訳が存在するが、それぞれが偉大な文学作品の一つである。

だが、私の場合、どうしても、書き手の気配や思いをダイレクトに受け取れていない感じがしてしまう。
だからこそ、私は日本の近現代文学が一番好きなのだ。
きっと、外国文学や古文を原文で読める人にとっては、まったく違う受け取り方ができることだろう。

これから先も、様々な文章を読んでいきたい。
先人たちが確かにそこで生きていたという、温度と息遣いを受け取るために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?