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「故郷」が羨ましい

知り合って間もない人と話をする際、必ずと言ってよいほど話題に上がるのが「故郷」についてのことだが、これといった故郷がない私は、どう答えるべきかいつも迷ってしまう。

というのも、いわゆる「転勤族」の父の元で育った私には、物心着く前に特定の地に土着した経験がないのだ。

生まれたのは母の出身地でもある愛知だが、1歳になる前に大阪へ行き、4歳まで大阪で過ごした。
幼稚園に入るタイミングで福岡へ移り住み、そのまま5年ほど暮らす。
その後は東京の郊外へ引っ越し、地元の中学・高校、都内の大学(自宅通学)を経て都内で就職、結婚するまでを過ごした。この間にも、近距離とはいえ一度転居を挟んでいる。

結婚に伴って東京に隣接する県へ移り住み、数回住居を変えたのち、県内にある夫の地元に自宅を構えて落ち着いた。今後は、よほどのことがない限り、今の土地に住み続けることになるだろう。

さて。この場合、私の故郷は一体どこになるのだろう?


大阪時代は、さすがに幼すぎて全く記憶にない。

福岡では、途中で転校したものの小学校も通ったため、家の周りや通学路、家族で出かけた先など土地の記憶はそれなりに残っている。友達に混ざってバリバリの博多弁を話していたことも含め、様々なことを今でも覚えている。

しかし、当時の友達との親交はだいぶ前になくなってしまったし、親戚などもいないため、今の私と福岡とを繋ぐ糸は切れてしまっている状態だ。

人格形成時期に最も長い年月を過ごしたのは東京であるため、出身は東京、と言ってもよいとは思うのだが、「転校」とか「引っ越してきた」という初期のイメージが伴うため、どうにもしっくり来ない。

大学や職場の上京組から帰省や地元の話を聞いたり、地方出身のタレントが方言で地元愛について語ったりしているのを見ると、なんだか無性に羨ましい気分になることがある。

なんというか、これといった故郷のない自分は、どの土地とも縁の薄い「根無し草」という気がするのだ。

とはいえ、別に、そのことを呪っているわけではない。この「根無し草」ライフを、どこか楽しんでいる自分がいたこともまた事実だ。

私は基本的に、それなりに快適に過ごすことさえできれば、日本全国どこに住んだってかまわないと考えている。
特定の土地へのこだわりがないし、知らない地域を自分なりに一から開拓していくのはワクワクする。

友達がいないのは寂しい、という人は多いと思うが、「地元の友達」がいない(これは性格的な部分が大きいと思う)私にとっては、友達とはたまにしか会わないものだという認識があるため、寂しいという感情が特にない。

それに、周りを見てみると、当然かもしれないが、みんながみんな地元愛に溢れている感じでもない。

私の夫は、今私たちが住んでいる地域で生まれ育ち、大学時代の4年間は都内で一人暮らしをしたのち、地元に戻り就職、結婚して今に至る。

さぞかし地元が好きなんだろうと思っていたのだが、どうもそういうわけではなさそうだ。
まぁ地元で就職したほうが色々と都合が良いから戻ってきた、程度のようで、地元LOVEみたいな雰囲気は特に感じられない。

近所のスーパーやコンビニで同級生に会ったら挨拶や世間話程度のことはしているようだが、地元の友達と飲みに行ったりしている気配はほとんどなく、東京の大学時代の友達や先輩の方がよほど頻繁に交流している印象だ。

故郷がない私がやたらと特別視しているだけで、案外もっと淡々とした感じなのかもしれない。

それに、「故郷が嫌い」だという人だって、決して珍しくはないと思う。

私自身、思春期の大部分を過ごした東京郊外については、あまり良い思い出がない。
主に中学時代に感じていた劣等感、周囲との軋轢、そんなどよどよとした暗雲のようなものが、通学路とか、駅とか、コンビニとか歯医者とか、そういう土地の風景の記憶にしっかりと絡みついていて、積極的に近づきたいという気持ちには今でもあまりなれない。

話はやや飛躍するが、「日本近代詞の父」と呼ばれ明治から昭和初期にかけて活躍した詩人・萩原朔太郎は、出身地である群馬県前橋市に対して、実に複雑な感情を抱いていたとされる。

家業の医院を継ぐことなく上京した朔太郎(その後離婚して前橋の実家に戻ることとなる)が、詩集を刊行する際に寄せた文章と、それに収録された、前橋の情景を題材にした次のような詩がある。

郷土!いま遠く郷土を望景すれば、萬感胸に迫つてくる。かなしき郷土よ。
(略)
少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでゐた。さうして世と人と自然を憎み、いつさいに叛いて行かうとする、卓抜なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のやうに巣を食つていつた。
(略)
郷土!私のなつかしい山河へ、この貧しい望景詩集を贈りたい。

「純情小曲集 出版に際して」/萩原朔太郎

人氣なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷のひとのわれに辛く
かなしきすももの核を噛まむとするぞ。
(略)
ああ生れたる故郷の土を踏み去れよ。
われは指にするどく研げるナイフをもち
葉櫻のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。

「純情小曲集 公園の椅子」/萩原朔太郎

私が面白いと思う点は、朔太郎は故郷が嫌いで憎んでいた、という単純な話で終わらないところだ。憎むというわりには、前橋の情景をうたった「郷土望景詩」を多く残していたりする。

(略)
著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を叙べるのである。
(略)

「氷島 自叙」/萩原朔太郎

東京にいてもどこにいても、朔太郎の心には常に前橋があった。結局、彼は故郷からは逃れられなかった。
激しい怒りも、穏やかな親愛の情も、全てを内包した、それが彼にとっての「故郷」だったのだろう。

ところで、「根無し草」の私が唯一生まれてから現在に至るまで切れ目なく関わりのある土地が、愛知である。

実際に暮らしたのは生まれて一年もないのだが、母の出身地であり祖父母も住んでいた愛知には、幼少期から少なくとも毎年一度は訪れている。

名古屋駅近郊にはなんとなく土地勘があるといえばあるし、現在は一時的に空き家になってしまっているものの祖父母が住んでいた家も残っているため、新幹線で名古屋駅に降り立つと、「帰ってきたな」「懐かしいな」という感覚がちゃんとある。

たとえそれがどんなにささやかなものだったとしても、そう思える土地があるということは、私にとってはやはりうれしいことだ。

今後、私たちが今住んでいるこの土地を離れることは、基本的にないはずだ。
つまり、4歳の娘にとっては、今のこの土地こそが、紛れもない「故郷」になっていく。

きっとこれから、嫌なこともあれば逃げ出したくなることもあるだろう。
この土地が嫌いになるかもしれない。出ていきたくなるかもしれないし、彼女は実際にそうするかもしれない。

それでも、ここが娘にとっての故郷であることに変わりはない。

娘がこれからずっとこの土地で暮らしていくのか、全く別の土地で暮らすのか、離れたのちに戻ってくることになるのか、それはわからない。

いずれにしても、どんな時でも娘を静かに、穏やかに、淡々と受け入れてくれるような、そんな故郷であることを願う。

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