関東地方梅雨明けの7月中旬、未だ私の左手の神経障害は完治はしていない。ほぼ不自由なく動き、楽器を弾くには差し支えはないが、若干握力が落ちたのか、疲れやすくなっているようで、2時間のステージの終盤ともなると、時に押弦に不自然さが出てくることもある。痺れはだいぶ緩和されて、現在は跡の残らないちょっとした火傷のような感覚で、日常生活ではその痺れを意識していないこともあるくらいにまでは回復はしたと言えよう。
この症状について記しておこうと思う。検索ワードとしては、尺骨神経、肘部管症候群、正中神経、手根管症候群、神経損傷、神経麻痺、となる。同じような悩みを抱えた方には、多少の救いにもなるかもしれないし、また諦めに近いかもしれないことは最初に断っておく。
今回、私が患ったのは、尺骨神経の麻痺あるいは軽度の損傷ということらしい。ただ、患ってからの痛みは皆無で、とにかく左手の握力が相当に落ち、ままならないという状況が続いた。今年4月の中旬、昨年から続いた忙しさからようやく解放され、とある朝に目が覚めると、左手に妙な痺れを感じた。これは嫌な予感がし、それは的中した。その嫌な予感というのは、10年程前に患った手根管症候群と痺れの感覚が似ていたということだが、今回は小指側にその症状が出たのだ。
手根管症候群とは親指の下あたりの手首に正中神経が分かれる手根管というところがあり、そこが何らかの圧迫で生じる障害。正中神経は親指、人差し指、中指、薬指の中指側を司るもので、この時も左手だったのだが、小指以外全く使えなかった。キーボーディスト、キース・エマーソンの自殺の一因とも報じられた症状だが、私もその時は2~3日経ってからかなりの絶望感に苛まれた。とにかく小指以外全く左手が使えないのだ。整形外科で手根管症候群と診断されたが、速攻の治療方法はなく、ビタミン剤を処方されるのみ。ただ小指は使えたので、その直後のいくつかのライヴは割と大編成だったこともあり、小指のスライドバーだけで対応した。そしてその時は二週間程で回復傾向があり、その後小編成の旅の演奏で一日一日と症状の改善を噛み締めた。
今回、その似たような痺れは小指と薬指の小指側に出た。こちらは腕の内側を通る尺骨神経。小指と薬指半分なので、高を括っていたが、握力は相当落ち、ギターで和音が押さえられない。人差し指と中指で単音は弾けるが、それ以外は全くままならない。そしてまた整形外科へ。肘の内側に尺骨神経が通る肘部管をいう場所があり、そこが圧迫される肘部管症候群と呼ばれる症状に近いのだが、診断の結果、どうやら肘部管が原因ではなく、肘から手首にかけてのローカルな場所の神経損傷ということだった。例によってビタミン剤を処方されるが、早い改善の一つの方法として、手外科による診断と手術というのも提案された。電気的な検査で神経損傷の場所を探し出し、その部位を手術するという手法で、肘部管症候群ではその手術は100%ではないがかなり有効とのこと。しかしそこの整形外科では、ローカルな場所の手術がどれくらい有効なのかは、なんとも言えず、痛みもないということであれば、ちょっと様子を見つつ、メチコバールを服用し回復を待つ、思いのほか早く左手が使えるようにならないとは言えません、と言われた。私も以前の手根管症候群がほぼ二週間で治ったという経験もあり、それに同意して、新たに手外科を紹介してもらうことはしなかった。手術の場合は一週間かもう少し先で、それからリハビリテーション、という大まかなスケジュールを告げられたので、だったらほぼ二週間の自然治癒を選ぶのはまあ普通で、しかも私のその時のスケジュールはレッスン以外ほぼ二週間何もなかった。
小指と薬指半分なので、以前のような絶望感は無かった。が、一週間経ってもなんら症状に変わりはなく、少し焦りだす。とにかく握力がない。左人差し指セーハのFのフォームが押さえられない。自分の脳の意思ははっきりと信号を送っているのだが、全く手に伝わらず力がないのだ。十日から二週間経っても変わらず、演奏ができる状態ではなかった。ギタリストの潮田雄一さんとの初デュオはキャンセルし(急遽、池間由布子さんが出演してくれることになり、執り行われた。多謝)、その後のカルメン・マキさんとの久しぶりのデュオも回復の度合いの難しさを感じ、3本のステージを見送った。(内、2本はファルコンさんとのデュオとなった。多謝)
そんなもどかしい状態だったので、鍼灸院に通い始めた。効果的面というほどではないが、施術直後は回復の兆しを感じた。悪くない。痛気持ち良いのだ。ただし保険が効かないので、出費が嵩む。整形外科でビタミン剤を処方してもらい、とりあえず週一回くらいで鍼をうってもらう。実は鍼灸は初めての経験なのだが、何か悪いところがなかったとしてもこれはくせになる。マッサージからの鍼、こんなに体を脱力することは滅多にないことだったと自覚する。
ただ、4~5回目の鍼灸の直後に悪い感触があった。それまでよりも動かないのだ。少し絶望が見えたが、翌日Fのフォームがなんとか鳴るようにはなった。自分の体から一番遠い1フレットはまだまだ厳しいが、3フレットや5フレットのGやAはようやく響きが戻りつつあった。ただ録音関係は延期が可能だったので仕事としてはホッとした。整形外科では、無理のない程度に動かして筋肉を落とさないように、と忠告を受けた。
そこでまたスケジュールを再考。スライドバーも操れるようになったので、石原岳さんや高岡大祐さんとのライヴはラップスティールとエフェクターで決行した。やはりライヴはやらないとな、と現場の喜びを噛み締めるが、金属のスライドバーも二時間操っていると、握力低下も痛感する。
そして、発症から一ヶ月半経った頃ほぼ問題なくギターが弾ける状態までになったが、リハビリテーションも考え、湯川潮音さんとのデュオは一ヶ月延期した。通常での現場復帰を発症から二ヶ月の六月中旬に定め、リハビリを兼ねた練習に取り組んだ。
今思えば、手術の方が回復が早かったのかもしれない。以前の経験が邪魔をしたし、加齢のせいもあるだろう。弾けるようになったとはいえ、その持続は問題で家で30分弾き続けると、結構ままならない場面も出てくる。とても歯痒い。
その六月中旬は小松亮太さんの野田でのコンサートで、そのリハーサルで手応えを確認した。この時の私にとっては持続力という意味でも、このステージ構成は幸いだった。実際の私の演奏はそのコンサートの半分程なのだ。この小松さんの大編成は年数回だが、多少レパートリーは変わるとはいえ、完全復帰には適していて、落ち着いて照準を合わせ、確実に適度にリハビリと練習を重ねた。
発症直後は酒を控えた。初めてのことだった。もっと控えたら、もう完治しているかもしれないが、完治しようがそうでない状態であろうが、ほぼ以前と同じようにギターが弾けるようになったので、二週間ほどで酒は解禁した。ただ今もって量はセーブしているし、最初の一杯はノンアルコールビールであることも多い。
さて、その野田。高速道路を使っても良かったのだが、朝からの交通情報で渋滞を確認し、おそらくスムースに流れることはまず無理だと感じたので、家からはかなり直線的にいける埼玉は浦和あたりを突っ切る道で進んだ。さいたま市では多少の渋滞はあったものの、概ね順調で予定時刻の30~40分前には到着できそうだった。しかし埼玉と千葉の県境の江戸川にかかる野田橋手前で大渋滞。10分で10メートルも進まない。とにかく久しぶりに大渋滞を経験したが、ここは慢性的に渋滞しているとのことだ。
今回の会場は野田ガスホール(野田市文化会館)なのだが、ここは私にとってとても懐かしい場所だ。このホールと同じ敷地内に高校から大学にかけてよく足を運んだ勤労青少年ホームがある。高校の友人の一人が野田の出身だったのだが、この勤労青少年ホームには音楽室があり、そこでよくリハーサルをすることになった。この頃の野田はバンドのコミュニティがとても盛んで、野田ミュージックファミリーという名称で知られていた。後に私もここでいくつかのバンドに参加することになる。そして春と秋の年二回、ホール裏手あたりの同じ敷地内のテントでコンサートが催され、それはそれは私の音楽の始まりの一つだったと言えよう。ただ、この頃の野田の話はあまりにもエピソードがありすぎるので、それはまた別の機会にしよう。
コンサートを無事終え、車に乗り込んだが、夕焼けがとても綺麗だった所為もあり、勤労青少年ホームの前まで移動してゆっくりと一服した。昔と何ら変わらない佇まいだったが、何かのイベントがあるのか、思ったより人の出入りが多かった。後でSNSで繋がっている野田の先輩の方の記事で夜はロビーでコンサートがあったことを知る。残念。
陽が落ちる前に野田の街をなんとなく見たかったので、愛宕駅を超えて県道を南下した。よく歩いた道だったが、40数年は昔のことで然程記憶は蘇らなかった。