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【アーカイブス#80】レナード・コーエン『You Want It Darker』*2016年11月

遺書というのは、本人がまだ存命のうちに書くものだが、遺作というのはどうなのだろう。国語辞典で調べてみると、遺作とは「死後に残された未発表の作品」とある。しかし意味は間違っているのかも知れないが、「生前の最後の作品」という意味でも使われることがあるように思う。そして遺書とは違って遺作の場合、本人が存命のうちに、「よーし、遺作を作るぞ」と決めて作ることはあまりないのではないだろうか。最新の作品がはからずも最後の作品、すなわち遺作となってしまうのだ。
この10月後半に発表されたレナード・コーエンの最新アルバム『ユー・ウォント・イット・ダーカー/You Want It Darker』(ソニー・ミュージック)を繰り返し聞いていて、ぼくはレナードがこのアルバムを自らの遺作と決めて作ったのではないかと思わずにはいられない。もちろん本人が公式にそんなことを宣言しているわけではないが、アルバムに収められた9曲に耳を傾けていると、レナードの声、レナードの歌い方、そしてレナードの歌詞などから、「わたしはもうこれで最後だぞ」と決意しているかのような、そんな覚悟のようなものが伝わってくる。

レナード・コーエンは1934年9月21日生まれ、この最新アルバムが発売される直前に82歳の誕生日を迎えたばかりだ。そして彼の最近のインタビューの映像をフェイスブックで見たりすると、急に老け込んだな、ずいぶんと弱ってしまったみたいだな、と思わずにはいられない。
アルバム『ユー・ウォント・イット・ダーカー』は、ソングライターでキーボード・プレイヤーのパトリック・レナードとレナード・コーエンの息子のアダム・コーエンによってプロデュースされているが、「パット・レナードと私は、1年以上このアルバムの制作に熱心に取り組んできましたが、二人ともほぼ同時に、背中から腰にかけての痛みや、他のいくつかの不調に見舞われました。特に私の場合は苦痛が激しく、このプロジェクトを断念せざるをえませんでした。アダムは、生死とまではいわずとも、私の回復は私が仕事に復帰することにかかっていると感じました。彼はプロジェクトを引き継ぎ、私に歌わせるため医療用チェアにすわらせ、未完成の作品を完成させてくれました」(アルバムの日本盤の三浦久さん訳)と、レナード・コーエンはアルバム・ジャケットのクレジットの「謝辞」で述べている。

『ユー・ウォント・イット・ダーカー』のソニー・ミュージックからの日本盤の解説は、菅野ヘッケルさんと素晴らしい歌詞の対訳もされた三浦久さんの二人が執筆しているが、三浦さんは「息子のアダム・コーエンに向けてコーエンが書いた謝辞を読むと、過去1年、彼の体調はかなり悪かったことがわかる。おそらくコーエンは自らの老いと死をかなり強く意識していたに違いない」と書かれている。またレナード・コーエンの名曲「So Long, Marianne/ソー・ロング・マリアン」のモデルで、レナードのかつての恋人だったマリアン・イーレンが、今年の7月に亡くなる直前に彼から受け取った手紙も三浦さんは翻訳して紹介されている。そこでレナードはこう綴っている。
「とうとう、マリアン、その時がきたようだね。年老いて、身体のいたるところが不調になり自由に動けなくなる時が。ぼくもすぐあなたのあとを追っていくよ。すぐ後ろにいるから、あなたが手を伸ばせばぼくの手に届くよ。あなたの美しさと知恵をぼくがいつも愛していたということをあなたは知っている。だから今更それに言及する必要はないだろう。今言いたいことはただ、あなたの旅がよいものであってほしいということ。さよなら。ぼくの古い友だち、永遠の恋人よ、すぐにまた会おう」

一方、菅野ヘッケルさんの解説の中には、「なお、パトリックによると、コーエンは次のアルバムをすでに考えていて、オーケストラを起用したアルバムを作りたいと思っているという」という情報を紹介されている。コーエンが次のアルバムのことを考えているとしたら、それはほんとうに素晴らしいことだ。もちろん次のアルバムを作りたくても、からだがもう言うことを聞かず、それによって気力も湧いてこないということもあるかもしれない。
しかしこの『ユー・ウォント・イット・ダーカー』を聞いていると、これはレナード・コーエンが遺作だと自ら覚悟して作った作品であり、「辞世の句」なのではないかとぼくは改めて思ってしまう。もちろんこんなぼくの思いは的外れで、杞憂にしかすぎず、レナードが85歳になっても90歳になっても新しいアルバムを作り続けてくれますようにと強く願っていることは言うまでもないのだが…。

ここまでの原稿をぼくが書いたのは、10月31日のことだった。MIDI RECORD CLUBのマガジンのぼくの連載「グランド・ティーチャーズ」の締め切りは、毎月月末いっぱいと決まっていて、それまでに書けないとその月は休載ということになってしまう。レナード・コーエンの新しいアルバムのことをここまで書いて、10月31日の深夜になってしまったので、ぼくはその文章を10月中にアップすることは諦め、11月に入ってから改めて原稿の続きにじっくり取り組むことにした。11月に入るとライブの予定がずっと続き、7日からは北海道のシンガー・ソングライターの長津宏文さんと二人での北海道五日間のツアーも決まっている。原稿の続きは北海道ツアーから戻ってきてから書くことに決めた。

そして11月の一週目、連日東京近辺でライブを行い、7日からは北海道へと旅立ち、長津宏文さんと一緒に札幌、旭川、遠軽、北見とライブ・ツアーを続けた。
レナード・コーエンが亡くなったことを知ったのは、11月11日のお昼前、長津さんの車で北見からその日の目的地、白糠へと向かう途中、国道240号線の阿寒湖のあたりを走っている時のことだった。助手席に座り、iPadでフェイスブックを見ていたら、誰かがシェアした「Leonard Cohen Dead at 82」というアメリカの『Rolling Stone』の記事が飛び込んできたのだ。一瞬、頭の中が真っ白になった。
最新作の『ユー・ウォント・イット・ダーカー』を聞いて、これはレナード・コーエンの「辞世の句」ではないかと考え、彼は覚悟を決めている、すぐにもマリアンのもとに行こうとしていると感じてはいたものの、まさかこんなに早くとは、こんなに急だとは、思ってもみなかった。しかも北海道ツアーの長津さんの車で、ぼくは持ってきたレナード・コーエンの『ユー・ウォント・イット・ダーカー』のCDを、繰り返し繰り返し何度もかけて聞き続けていたのだ。「ドライブするにはとても暗くてごめんなさいね」と、長津さんに言い訳しながら…。
そのアルバムの一曲目「You Want It Darker」で、「私はここにいます/覚悟はできています、主よ」(三浦久さん訳)とレナード・コーエンは歌っていたのに、ぼくはまったく覚悟というか、心の準備ができていなかったのだ。彼の死を知った後、釧路を経由して白糠へ向かう途中、ぼくは車中で平静を装い、長津さんと普通に話をしたりしていたが、「レナード・コーエンがいなくなってしまったのか!!」と、その悲しい事実、大きすぎる喪失感とどう向き合えばいいのかわからないまま、心の中はずっとざわざわし続けていた。

レナード・コーエンの最後のアルバム『ユー・ウォント・イット・ダーカー』は、アルバム・タイトルにも使われているように、「ダーク」がキーワードになっているようにぼくには思える。「ダーク」とは、暗闇、暗い、陰鬱という意味だが、暗い闇が象徴するのは、何かの終わり、終焉、すなわち死だ。そしてレナードは遺作となったこの作品の中で、曲ごとにいろんな暗闇、終焉を歌っている。
それは世界の闇、すなわち終末であったり、愛の闇、すなわち破局であったり、はたまた個人の闇、すなわち死であったりする。あるいはそれらの幾つもの闇がひとつの歌の中で重なり合っていたりもする。そして世界の終わりや、愛の終わりも歌っているが、アルバム全体から強く伝わって来るのは、自らの闇、すなわち死だ。レナードの深く低く重い歌声には、確実に迫り来るその闇を見つめ、それを受け容れようとする潔い覚悟が宿っているように思える。だからこそぼくはこんなにも急なこととは思いもよらなかったが、この最新アルバムを聞いて、これは彼の「辞世の句」ではないかと感じ取ってしまったのだ。

ここまでの原稿をぼくが書いたのは、11月12日に北海道ツアーから東京に戻った翌週のことだった。しかしまた東京近辺でのライブが続き、23日からはぼくが参加しているロック・バンド、To Tell The Truthの豊橋、名古屋、大阪、京都と回るツアーに出発しなくてはならなくなり、またもや文章の続きを書くのを中断せざるをえなくなってしまった。
そして今日11月28日、ツアーから戻ってきて、もう11月も残すところ後二日だけになってしまい、急いでこの文章を書き上げてアップしなければならない状況に追い込まれている。ところがまたまたTo Tell The Truthのツアー中、iPadでフェイスブックを見ていたら、レナード・コーエンのフェイスブックのページでシェアされた「For Leonard Cohen, the End Came With a Fall in the Night 」という、『The New York Times』の11月16日のベン・シサリオによって書かれた記事が飛び込んできた。

その記事では、レナード・コーエンのマネージャーのロバート・B・コーリーが伝えたレナードの死の詳細について触れられていて、それによるとレナード・コーエンは11月7日の夜に容態が悪くなり、そのまま眠っているうちに亡くなり、その死は突然で、予期せぬ出来事で、しかし穏やかなものだったということだ。
しかもその記事によると、体調は弱っていたものの、レナード・コーエンは二つの音楽的なプロジェクトと新たな詩集に取り組んでいる最中だった。二つの音楽的なプロジェクトとは、彼の歌がストリングス・アレンジされて奏でられるアルバムと古いリズム・アンド・ブルースのグルーブにインスパイアされて作られた新たな歌を集めて作られるアルバムで、どちらのアルバムもパトリック・レナードをコラボレーターとしてすでに着手されていて、パトリック・レナードはレナード・コーエンから(レナード、レナードでややこしい)、新しい歌詞をメールで受け取ったりしていたそうだ。
 
ということは、レナード・コーエン自身は『ユー・ウォント・イット・ダーカー』を自分の遺作、「辞世の句」とは思っていなくて、まだまだ次のアルバムを(しかも二枚も!!)、そして新たな詩集も上梓しようとしていたということではないか。ところが予期せぬ、ちょっと早く訪れすぎた闇によって、それは叶わぬこととなってしまったのだ。
『ユー・ウォント・イット・ダーカー』は、生きているレナード・コーエンが最後にぼくらに届けてくれた最後の作品だ。しかし国語辞典が定義するように、遺作を「死後に残された未発表の作品」と捉えるならば、この先ぼくらはその意味でのレナード・コーエンの遺作をいつか聞くことができるのだろうか?

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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