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荻窪

 東京は城南あたりからの車での帰路はほぼ環七を北上する。ずっと東京に住んでいるし、目黒、港、品川とよく足を運んだ場所は多いのだが、帰る段になるとすかさず北上して井の頭通りか青梅街道を左折するとなぜか落ち着く。いや、それまでが落ち着いていないわけではない、ただ城西と呼ばれる地域だと片目を瞑っていても楽に運転できるくらいに馴染んでいるのだ。この辺りでホッとして信号待ちで煙草に火を付けることは少なくない。すると空腹も感じる。まともな夕食をとっていない夜だったが、すでに23時少し前で何処かに寄りたくもなる。コロナ禍のマンボウは解除されたが、まだまだ深夜営業の店は多くない。食べるなら23区内だ、まだ店は空いているし、選択肢も少しはある。しかし強くはないがこの雨、車を停めてということになると、駐車場のあるファストフードやファミリーレストランにほぼ絞られる。いやまだそこまで空腹ではない、と自分をごまかす。田無や小平あたりには何度か立ち寄った定食屋、中華屋もあるが、この高円寺陸橋からはまあ40分、もう看板は下ろしている時間だろう。何より一仕事終えて一杯飲みたいのだ、結局、南高円寺や南阿佐ヶ谷の青梅街道沿いの店には見向きもせず、帰路を少し急いだ。
 天沼陸橋を下ったところ、先頭で信号待ちになる。交差点左手の道すぐにある居心地の良い酒場「田中屋」の灯りは無かったが、コロナ対策の虹の張り紙があったのでまだ営業はしているのだろう。この店に最後に入ったのもかれこれ十数年は前の事だ。そして信号は青になり車を進める。一気に街道が明るくなる。中央線と青梅街道が隣接するのは、この荻窪界隈だけで、少しの雨だがまだ人通りも多く、駅北口東側アーケードの店は殆ど営業中だ。知ったところももうそう多くは無いが、車が停めるのが難儀なので、通過、四面道まで進む。

 私は28年前に今の北多摩に引っ越したのだが、その前はこの荻窪界隈に住んでいた。これから通過する八丁交差点を北に上がったところで、法務局や井荻中学校の近く、早稲田通りのすぐ南、西武新宿線の井荻駅もそう遠くは無い閑静な住宅街の小柄なマンションに居た。学生時代の先輩がそこの二階に住んでいたのだが、階下の部屋が空き、駐車場付きで借りられた。その先輩はしばらくして引っ越し、その後に現SOUL玉Tokyoのマスターの矢野間さんが入った。

 車は八丁を過ぎ、街道は暗くなっていく。帰路のコンビニエンス・ストアで何かを買って、家で一杯のビールをまず飲むことに目的を定める。

 荻窪と言えば、色々と思い出すこともある。この街で泥酔することは無かったが、電車を降りた帰り際の軽く一杯は気軽な一日の後半一コマだった。まずはもう再開発で無くなってしまったが、北口駅前中華の珍来。あの赤い看板を知る方も多いだろう。ラーメン、餃子、炒飯、そして焼きそば、そのどれかとビール。あの店主の顔まで今でも覚えている。それからその珍来隣というか北口隣の鳥もと、バラックみたいな外みたいな線路際の焼き鳥屋もちょっと寄るのに都合よく、というかついつい吸い込まれてしまった。先述の田中屋はその頃は行っていなかったのだが、田中屋という同じ名の洋食屋が環八沿いにあり、そこではよく夕食を楽しんだ。あのドミグラスソースの味は今でも覚えている。それから当時は荻窪ラーメンと言われていて、丸福、春木屋あたりは人気があったが、いつでも空いていた佐久信も美味しかった。それから駅ビル脇の階段を上がった漢珍亭はいわゆる中華屋だが、一番通った店だ。
 まだ当時は杉並公会堂も古く、新星堂のビルも目立っていた。駅前の青梅街道も当時の歩道には屋根があったので、今よりは少しごちゃごちゃした印象が記憶に残っている。駐輪場に停められなかった自転車も歩道にあふれていて、朝夕はスムースには進めないこともあった。瑞穂町という東京西の郊外から引っ越してきたばかりの時は、その日常に少し驚いたが、程なく慣れた。

 その瑞穂町時代からずっと新青梅街道と青梅街道を使って東京都区内に移動していたのだが、とある時に信号待ちの車内から楽器店を見つけた。それがロックイン・タムタム店。荻窪駅北口西側青梅街道のアーケードにあったのだ。そして荻窪に引っ越してからは、何かにつけ寄っていていつしか店員さん達と仲良くなっていた。ここは新星堂のロックインなのだが、主に中古(今で言うところのヴィンテージも含め)を扱っていて、しかも結構気軽に弾かせてくれた。1960年代のグレッチ・ナッシュビルの極上のものがあって、それこそ涎を垂らすような勢いで眺めていて、店長さんから「また音出していきなよ」と声をかけられたこともあり、何度も試奏した。当時は多分20数万だったと記憶する。その頃に持っていた1970年代のカントリー・ジェントルマンを処分しての購入も考えなくは無かったが、フェンダーに戻った。しばらくして、その店長さんは急逝してしまう。懇意にしていた従業員のIさんがこっそり耳打ちしてくれて驚いたのだが、それはIさんが店の二階でとあるギターを調整していた時だった。それが私が今でも使っている1959年製のフェンダー・エスクワイアだ。だが、その調整時はボディとネックが別々になっている状態で、Iさんに聞くと、修理品ではなくこれから売りに出すとのこと。早速値段を尋ねる。まだ確実に決まっていないが、25万円を切る価格。その場で買います、と即答した。その時はアイドルのちょっとしたツアーの後でギャランティが入ったばかりでその勢いだったのだ。だからこのギターは試奏して買ったわけではない。しかも組み上げられたものを見た時は、ほんの少しだけがっかりした。想像どおりだったのだが、フロント・ピックアップ(ネック側)にギブソンのハムバッキングPAFが付いていたのだ。このスタイルは高校生の時には非常に憧れたモデルで自分の最初のエレキギターでもあったフェルナンデスのテレキャスターモデルにもこの改造を施したのだが、やはりもう一度普通の形に戻ってもみたかったと言うのが本音だ。よくある改造なのだが、そのフロント・ピックアップ部分のボディがザグられていることは明白で、逆に思えば改造もしやすいと思うことにして、心を落ち着かせた。
 暫くはテレキャスターの普通のフロント・ピックアップに戻して使っていた。事は足りていたが、何か手を入れたくなる。当初は高校生の時のバンドの先輩ギタリストがコーネル・デュプリーみたいなテレキャスターを持っていて、あのデアルモンドのピックアップが欲しいと思っていたのだが、簡単には見つからない。何せ当時は足で探すのが当然でそんな情報網もなく、雑誌広告にもパーツ情報はない。だが、その頃当時のバンド仲間からテスコのエレキギターをもらう。まだビザールと称してもてはやされる前のことだったので、古道具屋でも二束三文だった頃だ。音は気に入ったのだが、パーツが特殊でネックも反っていて、チューニングも合いづらく、操作性もままならなかった。ゴールドフォイル・ピックアップが4つも装着されているモデルで、試しに一つをエスクワイアにつけてみた。フェンダーの所謂’50年代のオールドにテスコという感覚は自分でも不思議だったが、改造も容易で、何と言ってもこれが理想の音だった。それで今日にまで至っている。
 このゴールドフォイル・ピックアップはライ・クーダーの使用で徐々に注目を集め、最近はコピーモデルも多いが、この頃の(Get Rhythmの頃)クーダーキャスターはまだゴールドフォイルでは無くハムバッキング・ピックアップだったと記憶する。来日公演もそうだったし、その頃の写真もラップスティールのリア・ピックアップはそのままだが、まだピックガードも白かったのだ。とは言え、まだ情報が遅かった時代、どっちが先だったか、と言うことではなく、エレキギター不遇の1980年代後期、今でも使える少し珍しいものが安価でそこいら辺に何気なく転がっていた、思えばラッキーな時でもあった。
 ちなみにこのギターのオリジナルのパーツはネックとボディの他は、コントロールパネル、ネックジョイントプレート、ビスのいくつか、くらいで、リア・ピックアップは購入当時のものだが、おそらくオリジナルでは無く、しかも一昨年にコイルが切れ、西東京の名工グリニングドッグでリワインドしたものだ。なので、ヴィンテージとしての価値は落ちるであろうが、自分にとってはプレーヤーズ・コンディション抜群の楽器である。

 このタムタム店では他にも色々買ったが、エスクワイアの他には、何と言ってもこのウクレレ。

 1960年代のカマカ・ケイキ(入門モデルの廉価版)のマホガニータイプでなんと2000円。その後何度も修理を重ね、今ではレッスンで欠かせない。ハードケースは割と最近ハードオフで手に入れたが、3000円だった。うむ残念。

 暫くして、駅近くにロックインがもう一軒出来た。ここは新品を扱う店で、二階がアコースティック・フロア。アコースティック・ギター用のピックアップのサンライズも結構早くから店頭にあり、それも今でも使っている。エフェクターも豊富で色々試しては買ったり、買わなかったり、そして買ったものをタムタム店に売ったり、とそんなこともあった。タムタム店にいたSさんがよく新店のエフェクター・フロアにいたのだが、色々と新製品を紹介してくれた。そして、正直お勧めしません、と言ったのがその頃のDODの新ラインナップで、これがまだ酷くて、いやとても面白かった。ほぼ思い通りにならないのだ。爆走したり急に音が出なくなったり、と壊れているわけではない、それが仕様だ。最近では使わなくなったが、今でも一台持っていて何故か手放せないのが、このDOD Buzzbox。オクターブ・ファズなのだが、相変わらずバカな音だ。Youtubeにいくつか上がっているが、プレミアがついているとは驚いた。

 小平の中華屋はやはり看板の時間だった。だが、なんと言っても仕事の後のビールが待ち遠しく、あと10分程だ、安全運転で帰るとしよう。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshik

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